森鴎外「舞姫」4/5(明治二十一年の冬は〜涙満ちたり。)  問題

 明治二十一年の冬は来にけり。表街の人道にてこそ砂をも蒔け、瓲をもふるへ、クロステル街のあたりは凸凹坎嚮の所は見ゆめれど、表のみは一面に凍りて、朝に戸を開けば飢ゑ凍えし雀の落ちて死にたるも哀れなり。室を温め、かまどに火をたきつけても、壁の石を通し、衣の綿をうがつ北欧羅巴の寒さは、なかなかに堪へ難かり。エリスは二、三日前の夜、舞台にて卒倒しつとて、人に助けられて帰り来しが、それより心地悪しとて休み、物食ふごとに吐くを、悪阻といふものならんと初めて心づきしは母なりき。ああ、 @さらぬだにおぼつかなきは我が身の行く末なるに、もしまことなりせばいかにせまし。
 今朝は日曜なれば家に在れど、心は楽しからず。エリスは床に臥すほどにはあらねど、小さき鉄炉のほとりに椅子さし寄せて言葉少なし。このとき戸口に人の声して、ほどなく姙廚にありしエリスが母は、郵便の書状を持て来て余に渡しつ。見れば見覚えある相沢が手なるに、郵便切手は普魯西のものにて、消印には伯林とあり。いぶかりつつも開きて読めば、とみのことにてあらかじめ知らするに由なかりしが、昨夜ここに着せられし天方大臣につきて我も来たり。伯の汝を見まほしとのたまふに疾く来よ。汝が名誉を回復するもこのときにあるべきぞ。心のみ急がれて用事をのみ言ひやるとなり。読み終はりて茫然たる面もちを見て、エリス言ふ。「故郷よりの文なりや。悪しき便りにてはよも。」彼は例の新聞社の報酬に関する書状と思ひしならん。「否、心になかけそ。御身も名を知る相沢が、大臣とともにここに来て我を呼ぶなり。急ぐと言へば今よりこそ。」
 a.Q1かはゆき独り子を出だしやる母もかくは心を用ゐじ。大臣にまみえもやせんと思へばならん、エリスは病をつとめて起ち、上襦袢もきはめて白きを選び、丁寧にしまひ置きしゲエロツクといふ二列ぼたんの服を出だして着せ、襟飾りさへ余がために手づから結びつ。
 「これにて見苦しとは誰もえ言はじ。我が鏡に向きて見たまへ。何故にかく不興なる面もちを見せたまふか。我ももろともに行かまほしきを。」少し容を改めて。「否、かく衣を改めたまふを見れば、なにとなく我が豊太郎の君とは見えず。」また少し考へて。「よしや富貴になりたまふ日はありとも、我をば見捨てたまはじ。我が病は母ののたまふごとくならずとも。」

 「何、富貴。」余は微笑しつ。「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより幾年をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。ただ年久しく別れたりし友にこそ会ひには行け。」エリスが母の呼びし一等ドロシユケは、輪下にきしる雪道を窓の下まで来ぬ。余は手袋をはめ、少し汚れたる外套を背に覆ひて手をば通さず帽を取りてエリスに接吻して楼を下りつ。彼は凍れる窓を開け、乱れし髪を朔風に吹かせて余が乗りし車を見送りぬ。
 余が車を降りしはカイゼルホオフの入り口なり。門者に秘書官相沢が室の番号を問ひて、久しく踏み慣れぬ大理石の階を上り、中央の柱にプリユツシユを覆へるゾフアを据ゑつけ、正面には鏡を立てたる前房に入りぬ。外套をばここにて脱ぎ、廊を伝ひて室の前まで行きしが、余は少し踟澡したり。同じく大学に在りし日に、余が品行の方正なるを激賞したる相沢が、今日はいかなる面もちして出で迎ふらん。室に入りて相対して見れば、形こそ旧に比ぶれば肥えてたくましくなりたれ、依然たる快活の気象、 a.Q2我が失行をもさまで意に介せざりきと見ゆ。別後の情を細叙するにもいとまあらず、引かれて大臣に aエッし、委託せられしは独逸語にて記せる文書の急を要するを翻訳せよとのことなり。余が文書を受領して大臣の室を出でしとき、相沢は後より来て余と午餐をともにせんと言ひぬ。
 食卓にては彼多く問ひて、我多く答へき。彼が生路はおほむね平滑なりしに、轗軻数奇なるは我が身の上なりければなり。
 余が胸臆を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて、彼はしばしば驚きしが、なかなかに余を責めんとはせず、かへりて他の凡庸なる諸生輩を bノノシりき。されど物語の終はりしとき、彼は色を正して諫むるやう、この一段のことはもと生まれながらなる弱き心より出でしなれば、今さらに言はんも甲斐なし。とはいへ、学識あり、才能ある者が、いつまでか一少女の情にかかづらひて、目的なき生活をなすべき。今は天方伯もただ独逸語を利用せんの心のみなり。己もまた伯が当時の免官の理由を知れるが故に、強ひて Aその成心を動かさんとはせず、伯が心中にて曲庇者なりなんど思はれんは、朋友に利なく、己に損あればなり。人を薦むるはまづその能を示すに若かず。これを示して伯の信用を求めよ。またかの少女との関係は、よしや彼に誠ありとも、よしや情交は深くなりぬとも、人材を知りての恋にあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交はりなり。意を決して断てと。これその言のおほむねなりき。
 大洋に舵を失ひし舟人が、はるかなる山を望むごときは、相沢が余に示したる前途の方針なり。されどこの山はなほ重霧の間に在りて、いつ行き着かんも、否、はたして行き着きぬとも、我が中心に満足を与へんも定かならず。貧しきが中にも楽しきは今の生活、捨て難きはエリスが愛。我が弱き心には思ひ定めん由なかりしが、しばらく友の言に従ひて、この情縁を断たんと約しき。余は守るところを失はじと思ひて、己に敵する者には抗抵すれども、友に対して否とはえ答へぬが常なり。
 別れて出づれば風面を打てり。二重の玻璃窓を厳しく閉ざして、大いなる陶炉に火をたきたるホテルの食堂を出でしなれば、薄き外套を通る午後四時の寒さはことさらに堪へ難く、膚粟立つとともに、 B余は心のうちに一種の寒さを覚えき
 翻訳は一夜になし果てつ。カイゼルホオフへ通ふことはこれよりやうやくしげくなりもてゆくほどに、初めは伯の言葉も用事のみなりしが、後には近ごろ故郷にてありしことなどをあげて余が意見を問ひ、折に触れては道中にて人々の失策ありしことどもを告げてうち笑ひたまひき。
 ひと月ばかり過ぎて、ある日伯は突然我に向かひて、「余は明旦、魯西亜に向かひて出発すべし。従ひて来べきか。」と問ふ。余は数日間、かの公務にいとまなき相沢を見ざりしかば、この問ひは不意に余を驚かしつ。「 Cいかで命に従はざらん。」余は我が恥を表さん。この答へはいち早く決断して言ひしにあらず。余は己が信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟の間、その答への範囲をよくも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひしうへにて、そのなし難きに心づきても、強ひて当時の心虚なりしを cオオひ隠し、耐忍してこれを実行することしばしばなり。
 この日は翻訳の代に、旅費さへ添へて賜りしを持て帰りて、翻訳の代をばエリスに預けつ。これにて魯西亜より帰り来んまでの費えをば支へつべし。彼は医者に見せしに常ならぬ身なりといふ。貧血の性なりし故、幾月か D心づかでありけん。座頭よりは休むことのあまりに久しければ籍を除きぬと言ひおこせつ。まだひと月ばかりなるに、 a.Q3かく厳しきは故あればなるべし。旅立ちのことにはいたく心を悩ますとも見えず。偽りなき我が心を厚く信じたれば。
 鉄路にては遠くもあらぬ旅なれば、用意とてもなし。身に合はせて借りたる黒き礼服、新たに買ひ求めたるゴタ版の魯廷の貴族譜、二、三種の辞書などを、小カバンに入れたるのみ。さすがに心細きことのみ多きこのほどなれば、出で行く後に残らんも物憂かるべく、また停車場にて涙こぼしなどしたらんには後ろめたかるべければとて、翌朝早くエリスをば母につけて知る人がり出だしやりつ。余は旅装整へて戸を閉ざし、鍵をば入り口に住む靴屋の主人に預けて出でぬ。
 魯国行きにつきては、何事をか叙すべき。我が舌人たる任務はたちまちに余を拉し去りて、青雲の上に落としたり。余が大臣の一行に従ひて、ペエテルブルクに在りし間に余を囲繞せしは、巴里絶頂の驕奢を、氷雪のうちに移したる王城の装飾、ことさらに黄欸の燭をいくつともなく点したるに、幾星の勲章、幾枝のエポレツトが映射する光、彫鏤の巧みを尽くしたるカミンの火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇のひらめきなどにて、この間仏蘭西語を最も円滑に使ふ者は我なるが故に、賓主の間に周旋して事を弁ずる者もまた多くは余なりき。
 この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日ごとに書を寄せしかばえ忘れざりき。余が立ちし日には、いつになく独りにて灯火に向かはんことの心憂さに、知る人のもとにて夜に入るまで物語りし、疲るるを待ちて家に帰り、直ちに寝ねつ。次の朝目覚めしときは、なほ独り後に残りしことを夢にはあらずやと思ひぬ。起き出でしときの心細さ、かかる思ひをば、生計に苦しみて、今日の日の食なかりし折にもせざりき。これ彼が第一の書の略なり。
 またほど経ての書はすこぶる思ひ迫りて書きたるごとくなりき。文をば否といふ字にて起こしたり。否、君を思ふ心の深き底をば今ぞ知りぬる。君はふるさとに頼もしき族なしとのたまへば、この地によき世渡りのたつきあらば、とどまりたまはぬことやはある。また我が愛もてつなぎ留めではやまじ。それもかなはで東に帰りたまはんとならば、親とともに行かんはやすけれど、かほどに多き路用をいづくよりか得ん。いかなる業をなしてもこの地にとどまりて、君が世に出でたまはん日をこそ待ためと常には思ひしが、しばしの旅とて立ち出でたまひしよりこの二十日ばかり、別離の思ひは日にけに茂りゆくのみ。袂を分かつはただ一瞬の苦艱なりと思ひしは迷ひなりけり。我が身の常ならぬがやうやくにしるくなれる、それさへあるに、よしやいかなることありとも、我をばゆめな捨てたまひそ。 E母とはいたく争ひぬ。されど我が身の過ぎしころには似で思ひ定めたるを見て a.Q4心折れぬ。我が東に行かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞ言ふなる。書き送りたまひしごとく、大臣の君に重く用ゐられたまはば、我が路用の金はともかくもなりなん。今はひたすら君がベルリンに帰りたまはん日を待つのみ。
 ああ、余はこの書を見て初めて我が地位を明視し得たり。恥づかしきは我が dニブき心なり。余は我が身一つの進退につきても、また我が身にかかはらぬ他人のことにつきても、決断ありと自ら心に誇りしが、この決断は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との関係を照らさんとするときは、頼みし胸中の鏡は曇りたり。
 大臣はすでに我に厚し。されど我が近眼はただ己が尽くしたる職分をのみ見き。余はこれに未来の望みをつなぐことには、神も知るらん、絶えて思ひ至らざりき。されど今ここに心づきて、我が心はなほ冷然たりしか。先に友の勧めしときは、大臣の信用は屋上の鳥のごとくなりしが、今はややこれを得たるかと思はるるに、相沢がこのごろの言葉の端に、本国に帰りて後もともにかくてあらば云々と言ひしは、大臣の Fかくのたまひしを、友ながらも公事なれば明らかには告げざりしか。今さら思へば、余が軽率にも彼に向かひてエリスとの関係を絶たんと言ひしを、早く大臣に告げやしけん。
 ああ、独逸に来し初めに、自ら a.Q5我が本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とはならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥のしばし羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。足の糸は解くに由なし。先にこれを操りしは、我が某省の官長にて、今はこの糸、あなあはれ、天方伯の手中にあり。余が大臣の一行とともにベルリンに帰りしは、あたかもこれ新年の旦なりき。停車場に別れを告げて、我が家をさして車を駆りつ。ここにては今も除夜に眠らず、元旦に眠るが習ひなれば、万戸寂然たり。寒さは強く、路上の雪は稜角ある氷片となりて、晴れたる日に映じ、きらきらと輝けり。車はクロステル街に曲がりて、家の入り口にとどまりぬ。このとき窓を開く音せしが、車よりは見えず。馭丁にカバン持たせて梯を上らんとするほどに、エリスの梯を駆け下るに会ひぬ。彼が一声叫びて我が頸を抱きしを見て馭丁はあきれたる面もちにて、何やらん髭のうちにて言ひしが聞こえず。
 「よくぞ帰り来たまひし。帰り来たまはずば我が命は絶えなんを。」
 G我が心はこのときまでも定まらず、故郷を思ふ念と栄達を求むる心とは、時として愛情を圧せんとせしが、ただこの一刹那、低徊踟澡の思ひは去りて、余は彼を抱き、彼の頭は我が肩に寄りて、彼が喜びの涙ははらはらと肩の上に落ちぬ。
 「幾階か持ちて行くべき。」と鑼のごとく叫びし馭丁は、いち早く上りて梯の上に立てり。
 戸の外に出で迎へしエリスが母に、馭丁をねぎらひたまへと銀貨を渡して、余は手を取りて引くエリスに伴はれ、急ぎて室に入りぬ。一瞥して余は驚きぬ、机の上には白き木綿、白きレエスなどをうづたかく積み上げたれば。
 エリスはうち笑みつつこれを指して、「何とか見たまふ、この心構へを。」と言ひつつ一つの木綿ぎれを取り上ぐるを見れば晤褓なりき。「我が心の楽しさを思ひたまへ。生まれん子は君に似て黒き瞳をや持ちたらん。この瞳。ああ、夢にのみ見しは君が黒き瞳なり。生まれたらん日には君が正しき心にて、よもあだし名をば名のらせたまはじ。」彼は頭を eれたり。「幼しと笑ひたまはんが、寺に入らん日はいかにうれしからまし。」見上げたる目には涙満ちたり。

問1 a〜eのカタカナ部を漢字で記しなさい★。

問2 @さらぬだにを指示内容を明らかにして言い換えなさい。★★

問3 Aその成心とは具体的にはどういうことか、分かりやすく説明しなさい。★★★

問4 B余は心のうちに一種の寒さを覚えきとは、どうしてそうなったといえるか。★★★

問5 Cいかで命に従はざらん。を口語で言い換えなさい。★★

問6 D心づかでありけんとはどういうことをそうしたのか、わかりやすく記しなさい。★★

問7 E母とはいたく争ひぬ。とはどういうことをそうしたのか。わかりやすく説明しなさい。★★

問8 Fかくとは具体的にはどういうことか。★★★

問9 G我が心はこのときまでも定まらずとは、どういうことがそうだというのか。★★★



advanced Q.1 a.Q1かはゆき独り子を…母ののたまふごとくならずとも。」でのエリスの心理を3点でまとめなさい。

advanced Q.2 a.Q2我が失行とは具体的にはどういうことか。

advanced Q.3 a.Q3かく厳しきは故あればなるべしの「故」を2つあげるとしたら、それは何か。これまでのことも思い出して説明しなさい。

advanced Q.4 a.Q4心折れぬとはどうしたことを言うものか。わかりやすく説明しなさい。

advanced Q.5 a.Q5我が本領とはどういうことか。これまでのことも思い出してわかりやすく説明しなさい。


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