森鴎外「舞姫」5/5(二、三日の間は大臣をも〜今日までも残れりけり。)  問題

 二、三日の間は大臣をも、旅の疲れやおはさんとてあへて訪はず、家にのみこもりをりしが、ある日の夕暮れ使ひして招かれぬ。行きて見れば待遇ことにめでたく、魯西亜行きの労を問ひ慰めて後、我とともに東に帰る心なきか、 @君が学問こそ我が測り知るところならね、語学のみにて世の用には足りなん、滞留のあまりに久しければ、さまざまの係累もやあらんと、相沢に問ひしに、さることなしと聞きて落ちゐたりとのたまふ。その気色いなむべくもあらず。 Aあなやと思ひしが、さすがに相沢の言を偽りなりとも言ひ難きに、もしこの手にしもすがらずば、本国をも失ひ、名誉を引き返さん道をも絶ち、 ad.Q1身はこの広漠たる欧州大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起これり。ああ、なんらの特操なき心ぞ、「承りはべり。」と答へたるは。
 黒がねの額はありとも、帰りてエリスに何とか言はん。ホテルを出でしときの我が心の錯乱は、たとへんに物なかりき。余は道の東西をも分かず、思ひに沈みて行くほどに、行き合ふ馬車の馭丁に幾たびか叱せられ、驚きて飛びのきつ。しばらくしてふとあたりを見れば、獣苑の傍らに出でたり。倒るるごとくに道の辺の榻に寄りて、焼くがごとく熱し、槌にて打たるるごとく響く頭を榻背にもたせ、死したるごときさまにて幾時をか過ごしけん。激しき寒さ骨に徹すと覚えて覚めしときは、夜に入りて雪はしげく降り、帽の庇、外套の肩には一寸ばかりも積もりたりき。
 もはや十一時をや過ぎけん、モハビツト、カルル街通ひの鉄道馬車の軌道も雪に埋もれ、ブランデンブルゲル門のほとりの瓦斯灯は寂しき光を放ちたり。立ち上がらんとするに足の aコゴえたれば、両手にてさすりて、やうやく歩み得るほどにはなりぬ。
 足の運びのはかどらねば、クロステル街まで来しときは、半夜をや過ぎたりけん。ここまで来し道をばいかに歩みしか知らず。一月上旬の夜なれば、ウンテル‐デン‐リンデンの酒家、茶店はなほ人の出入り盛りにて賑はしかりしならめど、ふつに覚えず。我が脳中にはただただ我は B許すべからぬ罪人なりと思ふ心のみ満ち満ちたりき。
 四階の屋根裏には、エリスはまだ寝ねずとおぼしく、炯然たる一星の火、暗き空にすかせば、明らかに見ゆるが、降りしきる鷺のごとき雪片に、たちまち覆はれ、たちまちまた現れて、風にもてあそばるるに似たり。戸口に入りしより疲れを覚えて、身の節の痛み堪へ難ければ、這ふごとくに梯を上りつ。姙廚を過ぎ、室の戸を開きて入りしに、机に寄りて 襁褓bひたりしエリスは振り返りて、「あ。」と叫びぬ。「いかにかしたまひし。御身の姿は。」
 驚きしもうべなりけり、蒼然として死人に等しき我が面色、帽をばいつの間にか失ひ、髪はおどろと乱れて、幾たびか道にてつまづき倒れしことなれば、衣は泥まじりの雪に汚れ、所々は裂けたれば。
 余は答へんとすれど声出でず、膝のしきりにをののかれて立つに堪へねば、椅子をつかまんとせしまでは覚えしが、そのままに地に倒れぬ。
 人事を知るほどになりしは数週の後なりき。熱激しくてうはことのみ言ひしを、エリスが cろにみとるほどに、ある日相沢は尋ね来て、余が彼に隠したる皎末をつばらに知りて、大臣には病のことのみ告げ、よきやうに繕ひおきしなり。余は初めて病床に侍するエリスを見て、その変はりたる姿に驚きぬ。彼はこの数週のうちにいたく痩せて、血走りし目は窪み、灰色の頬は落ちたり。相沢の助けにて日々の生計には窮せざりしが、この恩人は彼を精神的に殺ししなり。
 後に聞けば彼は相沢に会ひしとき、余が相沢に与へし約束を聞き、また Cかの夕べ大臣に聞こえ上げし一諾を知り、にはかに座より躍り上がり、面色さながら土のごとく、「我が豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺きたまひしか。」と叫び、その場に倒れぬ。相沢は母を呼びてともに助けて床に臥させしに、しばらくして覚めしときは、目は直視したるままにて傍らの人をも見知らず、我が名を呼びていたく dり、髪をむしり、布団を匏みなどし、またにはかに心づきたるさまにて物を探り求めたり。母の取りて与ふる物をばことごとくなげうちしが、机の上なりし襁褓を与へたるとき、探りみて顔に押し当て、涙を流して泣きぬ。
 これよりは騒ぐことはなけれど、精神の作用はほとんど全く廃して、その痴なること赤児のごとくなり。医に見せしに、 ad.Q2過激なる心労にて急に起こりしパラノイアといふ病なれば、治癒の見込みなしといふ。ダルドルフの癲狂院に入れんとせしに、泣き叫びてきかず、後にはかの襁褓一つを身につけて、幾たびか出だしては見、見ては欷歔す。余が病床をば離れねど、 Dこれさへ心ありてにはあらずと見ゆ。ただ折々思ひ出だしたるやうに「薬を、薬を。」と言ふのみ。
 余が病は全く癒えぬ。エリスが【  E  】屍を抱きて千行の涙を注ぎしは幾たびぞ。大臣に従ひて帰東の途に上りしときは、相沢と eりてエリスが母にかすかなる生計を営むに足るほどの資本を与へ、哀れなる狂女の胎内に残しし子の生まれん折のことをも頼みおきぬ。
 ああ、相沢謙吉がごとき良友は世にまた得難かるべし。されど ad.Q3我が脳裏に一点の彼を憎む心今日までも残れりけり

問1 a〜eのカタカナ部は漢字で、漢字はその読みをひらがなで記しなさい。★

問2 @君が学問こそ我が測り知るところならねをわかりやすく言い換えなさい。★★

問3 Aあなやと思ひしは何に対してそうしたのか。本文中の語句を使わないようにして説明しなさい。★★★

問4 B許すべからぬ罪人と思ったのはなぜか。簡潔に説明しなさい。★★★

問5 Cかの夕べ大臣に聞こえ上げし一諾とは何を言うものか。本文中から抜き出して答えなさい。★★

問6 Dこれとは何を指すのか。簡潔に説明しなさい。★★★

問7 空欄Eに傍線部が文意の通る慣用表現となるよう、3字の漢字ひらがな交じりの語句を記しなさい。★★★


advanced Q.1 ad.Q1身はこの広漠たる欧州大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起これりを、たとえは何をたとえているのかを明らかにしながらわかりやすく言い換えなさい。

advanced Q.2 ad.Q2過激なる心労とは、ここでは具体的には何を言うものか。

advanced Q.3 ad.Q3我が脳裏に一点の彼を憎む心今日までも残れりけりについて、そうであるのはなぜなのか。所見を述べなさい。



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森鴎外「舞姫」1/5  問題

森鴎外「舞姫」2/5  問題

森鴎外「舞姫」3/5  問題

森鴎外「舞姫」4/5  問題


森鴎外「舞姫」5/5(二、三日の間は大臣をも〜今日までも残れりけり。)  exercise

【一】 次の文章を読んで、あとの問いに答えよ。[50点]

 二、三日の間は大臣をも、旅の疲れやおはさんとてあへて訪はず、家にのみこもりをりしが、ある日の夕暮れ使ひして招かれぬ。行きて見れば (ア)タイグウことにめでたく、魯西亜行きの労を問ひ慰めて後、我とともに東に帰る心なきか、君が学問こそ我が測り知るところならね、語学のみにて世の用には足りなん、 (イ)タイリュウのあまりに久しければ、 @さまざまの係累もやあらんと、相沢に問ひしに、さることなしと聞きて落ちゐたりとのたまふ。その気色いなむべくもあらず。あなやと思ひしが、さすがに相沢の言を (ウ)イツワりなりとも言ひ難きに、もしこの手にしもすがらずば、本国をも失ひ、名誉を引き返さん道をも絶ち、身はこの広漠たる欧州大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起これり。ああ、 Aなんらの特操なき心ぞ、「承りはべり。」と答へたるは。
 B黒がねの額はありとも、帰りてエリスに何とか言はん。ホテルを出でしときの C我が心の錯乱は、たとへんに物なかりき。余は道の東西をも分かず、思ひに沈みて行くほどに、行き合ふ馬車の馭丁に幾たびか叱せられ、驚きて飛びのきつ。しばらくしてふとあたりを見れば、獣苑の傍らに出でたり。倒るるごとくに道の辺の榻に寄りて、焼くがごとく熱し、廨にて打たるるごとく響く頭を榻背にもたせ、死したるごときさまにて幾時をか過ごしけん。激しき寒さ骨に徹すと覚えて覚めしときは、夜に入りて雪はしげく降り、帽の庇、外套の肩には一寸ばかりも積もりたりき。
 もはや十一時をや過ぎけん、モハビツト、カルル街通ひの鉄道馬車の (エ)キドウも雪に埋もれ、ブランデンブルゲル門のほとりの瓦斯灯は寂しき光を放ちたり。立ち上がらんとするに足の (オ)コゴえたれば、両手にてさすりて、やうやく歩み得るほどにはなりぬ。
 足の運びのはかどらねば、クロステル街まで来しときは、半夜をや過ぎたりけん。ここまで来し道をばいかに歩みしか知らず。一月上旬の夜なれば、ウンテル―デン―リンデンの酒家、茶店はなほ人の出入り盛りにて賑はしかりしならめど、ふつに覚えず。我が脳中にはただただ我は許すべからぬ罪人なりと思ふ心のみ満ち満ちたりき。

問一 (ア)〜(オ)のカタカナを漢字に改めよ。

問二 @「さまざまの係累」とはどういうことをさしているか、答えよ。

問三 A「なんらの特操なき心ぞ」とあるが、どういう点で「特操」がないのか、具体的に説明せよ。

問四 大臣から帰国をすすめられた豊太郎は、どういう心情が働いて帰国を承諾したと思うか。次の中から適当でないものを選び、記号で答えよ。
  ア 頼みにする大臣には逆らいがたいという気持ちから。
  イ 親切にしてくれる相沢を裏切れないという気持ちから。
  ウ 自分の才能と見識を埋もれさせたくないという気持ちから。
  エ エリスとの生活には光明が見いだせないという気持ちから。

問五 B「黒がねの額」とはどういう意味か、簡潔に答えよ。

問六 C「我が心の錯乱」とあるが、豊太郎の心はどういうことで「錯乱」しているのか。その内容が述べられている一文を抜き出し、初めの五字で示せ。

問七 本文中から、豊太郎の生理的面と、心理的面とを合わせて表現していると思われる語句を一〇字以内で抜き出せ。

問八 エリスを裏切ることへの罪の意識に責められる豊太郎の心情が、最もよく表現されている一文を本文中から抜き出し、初めの五字で示せ。



【二】 次の文章を読んで、あとの問いに答えよ。[50点]

 人事を知るほどになりしは数週の後なりき。熱激しくてうはことのみ言ひしを、エリスが懇ろにみとるほどに、ある日相沢は尋ね来て、 @余が彼に隠したる顛末をつばらに知りて、大臣には病のことのみ告げ、よきやうに (ア)ツクロひおきしなり。余は初めて病床に侍するエリスを見て、その変はりたる姿に驚きぬ。彼はこの数週のうちにいたく痩せて、血走りし目は窪み、灰色の頬は落ちたり。相沢の助けにて日々の生計には (イ)キュウせざりしが、 Aこの恩人は彼を精神的に殺ししなり
 後に聞けば彼は相沢に会ひしとき、 B余が相沢に与へし約束を聞き、また Cかの夕べ大臣に聞こえ上げし一諾を知り、にはかに座より躍り上がり、面色さながら土のごとく、「我が豊太郎ぬし、かくまでに我をば (ウ)アザムきたまひしか。」と叫び、その場に倒れぬ。相沢は母を呼びてともに助けて床に臥させしに、しばらくして覚めしときは、目は直視したるままにて傍らの人をも見知らず、我が名を呼びていたく罵り、髪をむしり、布団を噛みなどし、またにはかに心づきたるさまにて物を探り求めたり。母の取りて与ふる物をばことごとくなげうちしが、 D机の上なりし襁褓を与へたるとき、探りみて顔に押し当て、涙を流して泣きぬ
 これよりは騒ぐことはなけれど、精神の作用はほとんど全く廃して、その痴なること赤児のごとくなり。医に見せしに、過激なる (エ)シンロウにて急に起こりしパラノイアといふ病なれば、治癒の見込みなしといふ。ダルドルフの癲狂院に入れんとせしに、泣き叫びてきかず、後にはかの晤褓一つを身につけて、幾たびか出だしては見、見ては欷歔す。余が病床をば離れねど、これさへ心ありてにはあらずと見ゆ。ただ折々思ひ出だしたるやうに「薬を、薬を。」と言ふのみ。  余が病は全く癒えぬ。エリスが生ける屍を抱きて千行の涙を注ぎしは (オ)たびぞ。大臣に従ひて帰東の途に上りしときは、相沢と議りてエリスが母にかすかなる生計を営むに足るほどの資本を与へ、哀れなる狂女の胎内に残しし子の生まれん折のことをも頼みおきぬ。
 ああ、相沢謙吉がごとき良友は世にまた得難かるべし。されど我が脳裏に E一点の彼を憎む心今日までも残れりけり。

問一 (ア)〜(オ)のカタカナは漢字に改め、漢字には読みを記せ。

問二 @「余が彼に隠したる顛末」とは何か、これまでのことも思い出して簡潔に答えよ。

問三 A「この恩人は彼を精神的に殺ししなり。」とあるが、実際にはエリスを「精神的に殺し」たのは豊太郎自身である。そのことがわかる部分を本文中から抜き出し、初めの五字で示せ。

問四 B「余が相沢に与へし約束」、C「かの夕べ大臣に聞こえ上げし一諾」とは、何か。これまでのこともそれぞれ簡潔に答えよ。

問五 D「机の上なりし……涙を流して泣きぬ。」から、エリスのどういう精神状態が読み取れるか、説明せよ。

問六 エリスの豊太郎への思いがすべて失われているわけではないことを示す一文を抜き出し、初めの五字で示せ。

問七 E「一点の彼を憎む心今日までも残れりけり。」について、次の問いに答えよ。
 (1)「一点」とは、具体的にどういうことをさしているのか、わかりやすく答えよ。  (2)「彼を憎む心」の裏には、「自分を憎む心」があると思われるが、それは自分のどういうところを憎む心なのか、全体の内容をふまえ説明せよ。

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森鴎外「舞姫」5/5  解答/解説


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