森鴎外「舞姫」3/5(ある日の夕暮れ〜え読まぬがあるに。)  問題

 ある日の夕暮れなりしが、余は獣苑を漫歩して、ウンテル‐デン‐リンデンを過ぎ、我がモンビシユウ街の僑居に帰らんと、クロステル巷の古寺の前に来ぬ。余はかの灯火の海を渡り来て、この狭く薄暗き巷に入り、楼上の木欄に干したる敷布、襦袢などまだ取り入れぬ人家、皀髭長き猶太教徒の翁が戸前にたたずみたる居酒屋、一つの梯は直ちに楼に達し、他の梯は穴蔵住まひの鍛冶が家に通じたる貸家などに向かひて、凹字の形に引き込みて建てられたる、この三百年前の遺跡を望むごとに、心の恍惚となりてしばしたたずみしこと幾たびなるを知らず。
 @今この所を過ぎんとするとき、閉ざしたる寺門の扉に寄りて、声をのみつつ泣く一人の少女あるを見たり。年は十六、七なるべし。かむりし巾を洩れたる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。我が足音に驚かされて顧みたる面、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。この青く清らにてもの問ひたげに愁ひを含める目の、半ば露を宿せる長き睫毛に覆はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我が心の底までは徹したるか。
 彼ははからぬ深き嘆きに遭ひて、前後を顧みるいとまなく、ここに立ちて泣くにや。我が臆病なる心は aレンビンの情に打ち勝たれて、余は覚えずそばに寄り、「何故に泣きたまふか。ところに係累なき外人は、かへりて力を貸しやすきこともあらん。」と言ひ掛けたるが、 a.Q1我ながら我が大胆なるにあきれたり
 彼は驚きて我が黄なる面をうち守りしが、我が真率なる心や色に現れたりけん、「君は善き人なりと見ゆ。 A彼のごとくむごくはあらじ。また我が母のごとく。」しばし涸れたる涙の泉はまたあふれて愛らしき頬を流れ落つ。
 「我を救ひたまへ、君。我が恥なき人とならんを。母は我が彼の言葉に従はねばとて、我を打ちき。父は死にたり。明日は葬らではかなはぬに、家に一銭の貯へだになし。」
 あとは欷歔の声のみ。我が眼はこのうつむきたる少女の震ふ項にのみ注がれたり。
 「君が家に送り行かんに、まづ心を鎮めたまへ。声をな人に聞かせたまひそ。ここは往来なるに。」彼は物語するうちに、覚えず我が肩に寄りしが、このときふと頭をもたげ、また初めて我を見たるがごとく、恥ぢて我がそばを飛びのきつ。
 人の見るが厭はしさに、早足に行く少女の後につきて、寺の筋向かひなる大戸を入れば、欠け損じたる石の梯あり。これを上りて、四階目に腰を折りてくぐるべきほどの戸あり。少女は錆びたる針金の先をねぢ曲げたるに、手を掛けて強く引きしに、中にはしはがれたる老媼の声して、「誰ぞ。」と問ふ。エリス帰りぬと答ふる間もなく、戸をあららかに引き開けしは、半ば白みたる髪、悪しき相にはあらねど、貧苦の跡を bヒタイに印せし面の老媼にて、古き獣綿の衣を着、汚れたる上靴を履きたり。エリスの余に会釈して入るを、彼は待ちかねしごとく、戸を激しくたて切りつ。
 余はしばし茫然として立ちたりしが、ふと油燈の光に透かして戸を見れば、エルンスト=ワイゲルトと漆もて書き、下に仕立物師と注したり。これ過ぎぬといふ少女が父の名なるべし。内には言ひ争ふごとき声聞こえしが、また静かになりて戸は再び開きぬ。先の老媼は慇懃におのが B無礼の振る舞ひせしを詫びて、余を迎へ入れつ。戸の内は廚にて、右手の低き窓に、真白に洗ひたる麻布を掛けたり。左手には粗末に積み上げたる怱瓦のかまどあり。正面の一室の戸は半ば開きたるが、内には白布を覆へる臥床あり。伏したるは亡き人なるべし。かまどのそばなる戸を開きて余を導きつ。この所はいはゆるマンサルドの街に面したる一間なれば、天井もなし。隅の屋根裏より窓に向かひて斜めに下がれる梁を、紙にて張りたる下の、立たば頭のつかふべき所に臥床あり。中央なる机には美しき氈を掛けて、上には書物一、二巻と写真帳とを並べ、陶瓶にはここに似合はしからぬ価高き花束を生けたり。そが傍らに少女は羞を帯びて立てり。
 彼は優れて美なり。乳のごとき色の顔は灯火に映じて微紅を潮したり。手足のか細くたをやかなるは、貧家の女に似ず。老媼の室を出でし後にて、少女は少しなまりたる言葉にて言ふ。「許したまへ。君をここまで導きし心なさを。君は善き人なるべし。我をばよも憎みたまはじ。明日に迫るは父の葬り、頼みに思ひしシヤウムベルヒ、君は彼を知らでやおはさん。彼はビクトリア座の座頭なり。彼が抱へとなりしより、はや二年なれば、事なく我らを助けんと思ひしに、人の憂ひにつけ込みて、 a.Q2身勝手なる言ひかけせんとは。我を救ひたまへ、君。金をば薄き給金を割きて返しまゐらせん。よしや我が身は食はずとも。それもならずば母の言葉に。」彼は涙ぐみて身を震はせたり。その見上げたる目には、人に否とは言はせぬ媚態あり。この目のはたらきは知りてするにや、また自らは知らぬにや。
 我が隠しには二、三マルクの銀貨あれど、それにて足るべくもあらねば、余は時計をはづして机の上に置きぬ。「これにて一時の急をしのぎたまへ。質屋の使ひのモンビシユウ街三番地にて太田と尋ね来ん折には価を取らすべきに。」
 少女は驚き感ぜしさま見えて、余が辞別のために出だしたる手を唇に当てたるが、はらはらと落つる熱き涙を我が手の背に注ぎつ。
 ああ、なんらの悪因ぞ。この恩を謝せんとて、自らわが僑居に来し少女は、シヨオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして、終日兀坐する我が読書の窓下に、一輪の名花を咲かせてけり。このときを初めとして、余と少女との交はりやうやくしげくなりもてゆきて、同郷人にさへ知られぬれば、彼らは速了にも、余をもつて色を舞姫の群れに漁するものとしたり。我ら二人の間にはまだ痴ガイなる歓楽のみ存じたりしを。
 その名を指さんは憚りあれど、同郷人のうちに事を好む人ありて、余がしばしば芝居に出入りして、女優と交はるといふことを、官長のもとに報じつ。さらぬだに余がすこぶる学問の岐路に走るを知りて憎み思ひし官長は、つひに旨を公使館に伝へて、我が官を免じ、我が職を解いたり。公使がこの命を伝ふるとき余に言ひしは、御身もし即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、もしなほここに在らんには、公の助けをば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶予を請ひて、とやかうと思ひ cワズラふうち、我が生涯にて最も悲痛を覚えさせたる二通の書状に接しぬ。この二通はほとんど同時に出だししものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某が、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる書なりき。余は母の書中の言をここに反復するに堪へず、涙の迫り来て筆の運びを妨ぐればなり。
 余とエリスとの交際は、このときまではよそ目に見るより清白なりき。彼は父の貧しきがために、十分なる教育を受けず、十五のとき舞の師の募りに応じて、この C恥づかしき業を教へられ、クルズス果てて後、ビクトリア座に出でて、今は場中第二の地位を占めたり。されど詩人ハツクレンデルが当世の奴隷と言ひしごとく、はかなきは舞姫の身の上なり。薄き給金にてつながれ、昼の温習、夜の舞台と厳しく使はれ、芝居の化粧部屋に入りてこそ紅粉をも粧ひ、美しき衣をもまとへ、場外にては独り身の衣食も足らずがちなれば、親はらからを養ふ者はその辛苦いかにぞや。されば彼らの仲間にて、いやしき限りなる業に堕ちぬはまれなりとぞいふなる。エリスがこれを逃れしは、おとなしき性質と、剛気ある父の守護とによりてなり。彼は幼きときよりもの読むことをばさすがに好みしかど、手に入るは卑しきコルポルタアジユと唱ふる貸本屋の小説のみなりしを、余と相知るころより、余が貸しつる書を読み習ひて、やうやく趣味をも知り、言葉のなまりをも正し、いくほどもなく余に寄する文にも誤字少なくなりぬ。 a.Q3かかれば余ら二人の間にはまづ師弟の交はりを生じたるなりき。我が不時の免官を聞きしときに、彼は色を失ひつ。余は彼が身の事にかかはりしを包み隠しぬれど、彼は余に向かひて母には Dこれを秘めたまへと言ひぬ。こは母の余が学資を失ひしを知りて余を疎んぜんを恐れてなり。
 ああ、詳しくここに写さんも要なけれど、余が彼を愛づる心のにはかに強くなりて、つひに離れがたき仲となりしはこの折なりき。我が一身の大事は前に横たはりて、まことに危急存亡の秋なるに、 aQ4この行ひありしを怪しみ、またそしる人もあるべけれど、余がエリスを愛する情は、初めて相見しときより浅くはあらぬに、今我が数奇を哀れみ、また別離を悲しみて伏し沈みたる面に、鬢の毛の解けてかかりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄を射て、恍惚の間にここに及びしをいかにせん。
 公使に約せし日も近づき、我が命は迫りぬ。このままにて郷に帰らば、学成らずして汚名を負ひたる E身の浮かぶ瀬あらじ。さればとてとどまらんには、学資を得べき手だてなし。
 このとき余を助けしは今我が同行の一人なる相沢謙吉なり。彼は東京に在りて、すでに天方伯の秘書官たりしが、余が免官の官報に出でしを見て、某新聞紙の編集長に説きて、余を社の通信員となし、伯林にとどまりて政治、学芸のことなどを報道せしむることとなしつ。
 社の報酬は言ふに足らぬほどなれど、すみかをも移し、午餐に行く食店をも変へたらんには、かすかなる暮らしは立つべし。とかう思案するほどに、心の誠を表して、助けの綱を我に投げかけしはエリスなりき。彼はいかに母を説き動かしけん、余は彼ら親子の家に寄寓することとなり、エリスと余とはいつよりとはなしに、あるかなきかの収入を合はせて、憂きが中にも楽しき月日を送りぬ。
 朝の珈琲果つれば、彼は温習に行き、さらぬ日には家にとどまりて、余はキヨオニヒ街の間口狭く奥行きのみいと長き  a.Q4休息所に赴き、あらゆる新聞を読み、鉛筆取り出でてかれこれと材料を集む。この切り開きたる引き窓より光を採れる室にて、定まりたる業なき若人、多くもあらぬ金を人に貸して己は遊び暮らす老人、取引所の業の暇を盗みて足を休むる商人などと臂を並べ、冷ややかなる石卓の上にて、忙はしげに筆を走らせ、小女が持て来る一盞の珈琲の冷むるをも顧みず、空きたる新聞の細長き板ぎれに挟みたるを、幾種となく掛け連ねたるかたへの壁に、幾たびとなく往来する日本人を、知らぬ人は何とか見けん。また一時近くなるほどに、温習に行きたる日には帰り路によぎりて、余とともに店を立ち出づるこの常ならず軽き、掌上の舞をもなし得つべき少女を、怪しみ見送る人もありしなるべし。
 我が F学問は荒みぬ。屋根裏の一灯かすかに燃えて、エリスが劇場より帰りて、椅子に寄りて縫ひ物などするそばの机にて、余は新聞の原稿を書けり。昔の法令条目の枯れ葉を紙上にかき寄せしとは異にて、今は活発々たる政界の運動、文学、美術にかかはる新現象の批評など、かれこれと結び合はせて、力の及ばん限り、ビヨルネよりはむしろハイネを学びて思ひを構へ、さまざまの文を作りしうちにも、引き続きて維廉一世と仏得力三世との崩扞ありて、新帝の即位、ビスマルク侯の進退いかんなどのことにつきては、ことさらに詳かなる報告をなしき。さればこのころよりは思ひしよりも忙はしくして、多くもあらぬ蔵書をひもとき、旧業を尋ぬることも難く、大学の籍はまだ削られねど、謝金を納むることの難ければ、ただ一つにしたる講筵だに行きて聴くことはまれなりき。
 我が学問は荒みぬ。されど余は別に一種の見識を長じき。そをいかにと言ふに、およそ G民間学の流布したることは、欧州諸国の間にて独逸に若くはなからん。幾百種の新聞、雑誌に散見する議論にはすこぶる高尚なるも多きを、余は通信員となりし日より、かつて大学にしげく通ひし折、養ひ得たる一隻の眼孔もて、読みてはまた読み、写してはまた写すほどに、今まで一筋の道をのみ走りし知識は、おのづから総括的になりて、同郷の留学生などの大方は、夢にも知らぬ境地に至りぬ。彼らの仲間には独逸新聞の社説をだによくはえ読まぬがあるに。

問1 aレンビン・bヒタイ・cワズラを漢字で記しなさい★。

問2 @の段落での「一人の少女」の描写の特徴を説明しなさい。★★★

問3 A彼のごとくむごくはあらじ。また我が母のごとく。について、
   1.「かれ」とは誰で何をしたというのか。★★★
   2.「母」は何をしたというのか。★★

問4 B無礼の振る舞ひせしとは具体的にどういうことか、本文中から抜き出しなさい。★★

問5 C恥づかしき業とは具体的には何か、漢字一字で記しなさい。★★

問6 Dこれとは具体的には何か、本文中から抜き出しなさい。★★

問7 E身の浮かぶ瀬はどういうことを比喩的に言う慣用表現か。★★

問8 F学問とほぼ同意義で使われている語句を、同段落の本文から二か所抜き出しなさい。★★

問9 G民間学とは具体的にはどういうものをいうのか。同段落の本文から抜き出して示しなさい★★


advanced Q.1 a.Q1我ながら我が大胆なるにあきれたりから豊太郎のどういうことが読み取れるか説明しなさい。

advanced Q.2 a.Q2身勝手なる言ひかけとは何を求めたものと言えるか。本文中から該当する9字の個所を抜き出して答えなさい。

advanced Q.3 a.Q3かかればを、指示内容を明らかにしながらわかりやすく言い換えなさい。

advanced Q.4 aQ4この行ひとは具体的にはどういうことか説明しなさい。

advanced Q.5 a.Q5休息所とはどういう場所なのか、分かりやすく説明しなさい。


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森鴎外「舞姫」4/5  問題

森鴎外「舞姫」5/5  問題

森鴎外「舞姫」1/5  問題

森鴎外「舞姫」2/5  問題




森鴎外「舞姫」3/5(ある日の夕暮れ〜え読まぬがあるに。)  exercise

 彼は優れて美なり。乳のごとき色の顔は灯火に映じて微紅を潮したり。手足のか細くたをやかなるは、貧家の女に似ず。老媼の室を出でし後にて、少女は少しなまりたる言葉にて言ふ。「許したまへ。君をここまで導きし心なさを。君は善き人なるべし。我をばよも憎みたまはじ。明日に迫るは父の葬り、頼みに思ひしシヤウムベルヒ、君は彼を知らでやおはさん。彼はビクトリア座の座頭なり。彼が抱へとなりしより、はや二年なれば、事なく我らを助けんと思ひしに、 @人の憂ひにつけ込みて、身勝手なる言ひかけせんとは。我を救ひたまへ、君。金をば薄き給金を aきて返しまゐらせん。よしや我が身は食はずとも。それもならずば母の言葉に。」彼は涙ぐみて身を震はせたり。その見上げたる目には、人に否とは言はせぬ媚態あり。この目のはたらきは知りてするにや、また自らは知らぬにや。
 我が隠しには二、三マルクの銀貨あれど、それにて足るべくもあらねば、余は時計をはづして机の上に置きぬ。「これにて一時の急をしのぎたまへ。質屋の使ひのモンビシユウ街三番地にて太田と尋ね来ん折には価を取らすべきに。」  少女は驚き感ぜしさま見えて、余が辞別のために出だしたる手を唇に当てたるが、はらはらと落つる熱き涙を我が手の背に注ぎつ。
 ああ、なんらの悪因ぞ。この恩を謝せんとて、自らわが僑居に来し少女は、シヨオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして、終日兀坐する我が読書の窓下に、一輪の名花を咲かせてけり。このときを初めとして、余と少女との交はりやうやくしげくなりもてゆきて、同郷人にさへ知られぬれば、彼らは速了にも、余をもつて色を舞姫の群れに漁するものとしたり。我ら二人の間にはまだ痴磽なる歓楽のみ存じたりしを。
          【 中          略 】
 その名を指さんは憚りあれど、同郷人のうちに事を好む人ありて、余がしばしば芝居に出入りして、女優と交はるといふことを、官長のもとに報じつ。さらぬだに余がすこぶる学問の岐路に走るを知りて憎み思ひし官長は、つひに旨を公使館に伝へて、我が官を免じ、我が職を解いたり。公使がこの命を伝ふるとき余に言ひしは、御身もし即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、もしなほここに在らんには、公の助けをば仰ぐべからずとのことなりき。余は一週日の猶予を請ひて、とやかうと思ひ煩ふうち、我が生涯にて最も悲痛を覚えさせたる二通の書状に接しぬ。この二通はほとんど同時に出だししものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某が、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる書なりき。余は母の書中の言をここに反復するに堪へず、涙の迫り来て筆の運びを妨ぐればなり。
          【 中          略 】
 余とエリスとの交際は、このときまではよそ目に見るより清白なりき。彼は父の貧しきがために、十分なる教育を受けず、十五のとき舞の師の募りに応じて、 Aこの恥づかしき業を教へられ、クルズス果てて後、ビクトリア座に出でて、今は場中第二の地位を占めたり。されど詩人ハツクレンデルが当世の奴隷と言ひしごとく、はかなきは舞姫の身の上なり。薄き給金にてつながれ、昼の温習、夜の舞台と厳しく使はれ、芝居の化粧部屋に入りてこそ紅粉をも粧ひ、美しき衣をもまとへ、場外にては独り身の衣食も足らずがちなれば、親はらからを養ふ者はその辛苦いかにぞや。されば彼らの仲間にて、いやしき限りなる業に堕ちぬはまれなりとぞいふなる。エリスがこれを逃れしは、おとなしき性質と、剛気ある父の守護とによりてなり。彼は幼きときよりもの読むことをばさすがに好みしかど、手に入るは卑しきコルポルタアジユと唱ふる貸本屋の小説のみなりしを、余と相知るころより、余が貸しつる書を読み習ひて、やうやく趣味をも知り、言葉のなまりをも正し、いくほどもなく余に寄する文にも誤字少なくなりぬ。 Bかかれば余ら二人の間にはまづ師弟の交はりを生じたるなりき。我が不時の免官を聞きしときに、彼は色を失ひつ。余は C彼が身の事にかかはりしを包み bカクしぬれど、彼は余に向かひて母にはこれを秘めたまへと言ひぬ。Dは母の余が学資を失ひしを知りて余を cウトんぜんを恐れてなり。
 ああ、詳しくここに写さんも要なけれど、余が彼を愛づる心のにはかに強くなりて、つひに離れがたき仲となりしはこの折なりき。我が一身の大事は前に横たはりて、まことに危急存亡の秋なるに、 Eこの行ひありしを怪しみ、またそしる人もあるべけれど、余がエリスを愛する情は、初めて相見しときより浅くはあらぬに、今我が数奇を哀れみ、また別離を悲しみて伏し沈みたる面に、鬢の毛の解けてかかりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて F常ならずなりたる脳髄を射て、恍惚の間にここに及びしをいかにせん。
 公使に約せし日も近づき、我が命は迫りぬ。このままにて郷に帰らば、学成らずして汚名を負ひたる身の浮かぶ瀬あらじ。さればとてとどまらんには、学資を得べき手だてなし。
 このとき余を助けしは今我が同行の一人なる相沢謙吉なり。彼は東京に在りて、すでに天方伯の dヒショ官たりしが、余が免官の官報に出でしを見て、某新聞紙の編集長に説きて、余を社の通信員となし、伯林にとどまりて政治、学芸のことなどを報道せしむることとなしつ。
           【 中          略 】
 G我が学問は荒みぬ。屋根裏の一灯かすかに燃えて、エリスが劇場より帰りて、椅子に寄りて縫ひ物などするそばの机にて、余は新聞の原稿を書けり。昔の法令条目の H枯れ葉を紙上にかき寄せしとは異にて、今は活発々たる政界の運動、文学、美術にかかはる新現象の批評など、かれこれと結び合はせて、力の及ばん限り、ビヨルネよりはむしろハイネを学びて思ひを構へ、さまざまの文を作りしうちにも、引き続きて維廉一世と仏得力三世との崩扞ありて、新帝の即位、ビスマルク侯の進退いかんなどのことにつきては、ことさらに詳かなる報告をなしき。さればこのころよりは思ひしよりも忙はしくして、多くもあらぬ蔵書をひもとき、旧業を尋ぬることも難く、大学の籍はまだ削られねど、謝金を納むることの難ければ、ただ一つにしたる講筵だに行きて聴くことはまれなりき。
 我が学問は荒みぬ。されど余は別に一種の見識を長じき。そをいかにと言ふに、およそ民間学の流布したることは、欧州諸国の間にて独逸に eくはなからん。幾百種の新聞、雑誌に散見する議論にはすこぶる高尚なるも多きを、余は通信員となりし日より、かつて大学にしげく通ひし折、養ひ得たる一隻の眼孔もて、読みてはまた読み、写してはまた写すほどに、 I今まで一筋の道をのみ走りし知識は、おのづから総括的になりて、同郷の留学生などの大方は、夢にも知らぬ境地に至りぬ。彼らの仲間には独逸新聞の社説をだによくはえ読まぬがあるに。

問1 a〜eのカタカナ部を漢字で記しなさい。

問2 @「人の憂ひにつけ込みて、身勝手なる言ひかけせん」について、
   (1)「人の憂ひ」とは具体的には何か、説明しなさい。
   (2)「身勝手なる言ひかけ」とは何を求めたものと言えるか。本文中から該当する9字の個所を抜き出して答えなさい。

問3 A「この恥づかしき業」とは何か、本文中から一字で抜き出しなさい。

   B「かかれば」の指示内容を明らかにしてわかりやすく言い換えなさい。

   C「彼が身の事にかかはりし」とはどういうことか、具体的に説明しなさい。

   D「」は何を指すのか説明しなさい。

   E「この行ひ」とは何か説明しなさい。

   F「常ならずなりたる脳髄」をFの語句を使わないようにしてわかりやすく言い換えなさい。

   G「我が学問は荒みぬ」とあるが、その具体的状態が書かれている部分を本文中から抜き出せ。

   H「枯れ葉」はどういうことを言わんとするものか。わかりやすく説明しなさい。

問4 I「今まで一筋の道をのみ走りし知識は、おのづから総括的になりて、同郷の留学生などの大方は、夢にも知らぬ境地に至りぬ。」とあるが、ここに表れている豊太郎の気持ちとして適当なものを、次の中から一つ選び、記号で答えよ。
   ア 満足と自負  イ 満足とあきらめ  ウ 自負と焦燥  エ 不安と満足

問5 この作品は、豊太郎が日本へ帰国の途上セイゴンの港で書いていることになっているが、それがわかる一文はどれか。その最初の5字を記しなさい(句読点も1字とカウントする)。

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