源氏物語「紫の上の死 1/3」(御法)   現代語訳

 秋待ちつけて、世の中すこし涼しくなりては、(紫の上は)御心地もいささかさはやぐやうなれど、なほともすれば、かことがまし。さるは、身にしむばかり思さるべき秋風ならねど、露けき折がちにて過ぐしたまふ。(明石の)中宮は、参りたまひなむとするを、今しばしは御覧ぜよとも、聞こえまほしう思せども、さかしきやうにもあり、内裏の御使の隙なきもわづらはしければ、さも聞こえたまはぬに、あなたにもえ渡りたまは【  A  】ば、宮ぞ渡りたまひける。かたはらいたけれど、げに見たてまつらぬもかひなしとて、こなたに御しつらひをことにせさせたまふ。「こよなう痩せ細りたまへれど、かくてこそ、あてになまめかしきことの限りなさもまさりてめでたかりけれ」と、来し方あまり匂ひ多く、あざあざとおはせし盛りは、なかなかこの世の花の薫りにもよそへられたまひしを、限りもなくらうたげにをかしげなる御さまにて、いとかりそめに世を思ひたまへるけしき、似るものなく心苦しく、すずろにもの悲し。

 いよいよ秋になって、世間がいくらか涼しくなったので、(病める紫の上の)ご気分もわずかにさっぱりするように見えることは見えたが、やはりどうかすると、はたから見てうらみごとを言いたくなるような一進一退の病気の様子である。それは身に染みるほどに感じるほどの秋風ではないが、(紫の上は)とかく涙もろくなって日々をお過ごしなさっていらっしゃる。(二条の院に里居〈サトイ〉していらっしゃる)明石の中宮(源氏の一人娘)は、(いつまでもこうしておれないので)宮中に参内なさろうとされるが、(紫の上は、)「もう少し(私の様子を)ごらんになってください。」とも申し上げたく思われるけれど、それはさしでがましいようでもあり、また、しょっちゅう(帝から)参内のご催促があるので気が重くもあり、そう(「今しばし」)とも申し上げなさりにくくいらっしゃる(といって)、あちら(東の対)へも、(病気ゆえ)おでましになれないので、(逆に)中宮様が(紫の上の部屋に)いらっしゃった。(中宮をお迎えするのは)病中のこととて心苦しくて恐れ多いことながら、(中宮を)ご覧にならないのも、(わざわざ来ていただいた)かいがないというわけで、ご自分の部屋に中宮のお席を特にご準備なさる。(紫の上は)ひどくやせ細ってしまわれているが、このお姿でこそかえって気品もあり優雅なことこの上もなくまさって、お美しい方であることと、今まであまりに色香にあふれた美しさが多く、あざやかなお姿でおられた盛りの年ごろは、むしろこの世の桜の花の香りにもたとえられなされたのを、今はこの上なく愛らしく美しくお見えなさるお姿で、この世の中を、はかないものと悟りきっておられるお姿は比べるものがないほど痛々しく、わけもなく物悲しく感じられてくるのである。



 風すごく吹き出でたる夕暮に、 見たまふとて、脇息に寄りゐたまへるを、院(源氏)渡りて見たてまつりたまひて、「今日は、いとよく起きゐたまふめるは。この御前にては、こよなく御心もはればれしげなめりかし」
と聞こえたまふ。かばかりの隙あるをも、いとうれしと思ひきこえたまへる御けしきを見たまふも、心苦しく、「つひに、いかに思し騒がむ」と思ふに、あはれなれば、
 A おくと見るほどぞはかなきともすれば風に乱るる萩のうは露
げにぞ、折れかへりとまるべうもあらぬ、よそへられたる折さへ忍びがたきを、見出だしたまひても、
 B ややもせば消えをあらそふ露の世に後れ先だつほど経ずもがな
とて、御涙を払ひあへたまはず。宮(明石の中宮)、
 C 秋風にしばしとまらぬ露の世を誰れか草葉のうへとのみ見む
と聞こえ交はしたまふ御容貌ども、あらまほしく、見るかひあるにつけても、「かくて千年を過ぐすわざもがな」と思さるれど、心にかなはぬことなれば、かけとめむ方なきぞ悲しかりける。
 「今は渡らせたまひね。乱り心地いと苦しくなりはべりぬ。いふかひなくなりにけるほどと言ひながら、いとなめげにはべりや」とて、御几帳引き寄せて臥したまへるさまの、常よりもいと頼もしげなく見えたまへば、「いかに思さるるにか」とて、宮は、御手をとらへたてまつりて、泣く泣く見たてまつりたまふに、まことに消えゆく露の心地して、限りに見えたまへば、御誦経の使ひども、数も知らず立ち騷ぎたり。先ざきも、かくて生き出でたまふ折にならひたまひて、御もののけと疑ひたまひて、夜一夜さまざまのことをし尽くさせたまへど、かひもなく、明け果つるほどに消え果てたまひぬ。

 風がひどく吹き出した夕暮れ、(紫の上は)庭の植え込みをご覧になろうとして、脇息に寄り掛かっていられるのを、院(源氏の君)がおいでになってご覧になり、「今日は、ごきげんよく起きておられるようですね。中宮がおいでになるので、ことさらご気分も晴れ晴れしているようなごようすに見えますね。」と申し上げなさる。(紫の上は)このように少し気分の良い時があれば、まことにうれしいことと思われる(源氏の君の)ごようすをご覧になるのも気がふさがれるようで、結局(自分がこの世にいなくなったら、源氏の君は)どのようにご動揺なさるだろうと思うと、わけもなくもの悲しくて、
 A おくと見る… 置くと見る間もはかない。どうかすると、風に吹き乱されて萩の葉に置く露は。(私の命もその露と同じようなものです。)
なるほど、風に吹かれて折れ返った枝に揺り動かされて散るかと思われる庭の萩の露が、(ご自身に)なぞえられる。そのうえ折からの風情からも、(源氏の君は)悲しみに耐えられないで、庭前の風情をご覧になるにつけても、
 B ややもせば… どうかすると先を争って消える露にも等しいこの世では、遅れたり先だったりする間をおかず、いつもいっしょでありたいものですね。
と言って、後から後から流れる涙を払いかねていらっしゃる。中宮様は、
 C 秋風に… 秋風のためにほんのしばらくもとまらず乱れ散る露のように、はかないこの世の中を、誰が草葉の上だけのことと思いましょうか。(私どもも同じことでしょう)。
と詠み交わしなさる。(紫の上や中宮の)ご容貌は理想的で見るかいのあるにつけても、このまま千年も過ごす方法があったらと(源氏の君は)お思いになるけれど、それは思いに任せぬことであるから、消えていく命をこの世に引きとめる方法がないのは、なんとも悲しいことである。(紫の上は)「(中宮様、)もうお引き取りくださいませ。とても気分が悪くなりました。このようにかいがないほど衰え切った状態とは申せ、ここにいていただくのは、まことに申し訳がありません。」と言って、几帳を引き寄せ(させ)身を横になされるようすがいつもよりずっと頼りなげに見えるので、(中宮様は、)「ご気分はいかがですか。」と言って、み手をお取りになり、泣きながらご覧になると、まるで露が消えるような気がして、今がこの世の永のお別れかとお見受けされるので、(病魔退散のための)僧を呼ぶ使いたちが大勢出かけることになり、大騒ぎとなる。前々にも、こんな風で蘇生されたことがあったので、(源氏の君は、)これは物の怪の仕業に違いないと疑われ、その世は一晩中、種々の加持祈祷をなされるが、そのかいもなく、夜のしらじらと明けるころ、お亡くなりなさったのであった。



 宮も、帰りたまはで、かくて見たてまつりたまへるを、限りなく思す。誰れも誰れも、ことわりの別れにて、たぐひあることとも思されず、めづらかにいみじく、明けぐれの夢に惑ひたまふほど、さらなりや。さかしき人おはせ【  E  】けり。さぶらふ女房なども、ある限り、さらにものおぼえたるなし。

 中宮様も、宮中にお帰りにならないで、今はの際までおそばにおられたことを、この上もなく因縁のあることと感慨深くお思いになる。誰も誰も、生者必滅(しょうじゃひつめつ)、当然の別れで、おなじようなことがいくらでもあるのに、そうとは思われず、またとなく悲しくて、夜明け方の薄明りの中で見る夢のように、(夢か現かと)思いまどわれるほどに惑乱したお気持ちになられた(このありさま)はいまさら、言うまでもないことよ。(こんな折には)思慮分別のある人は一人もいない。女房なども、一人残らず、気も動転して心に確かな者はいなかった。

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