だいたい能登守〔平〕教経の矢の前に立ち向かう者はいなかった。(能登殿は)矢数のある限りを射尽くして、今日を最後とお思いになったのであろうか、赤地の錦の鎧直垂に、唐綾縅の鎧を着て、いかめしい作りの大太刀を抜き、白木の柄の大長刀の鞘をはずし、左右の手に持ってなぎ倒して回られると、(能登殿に)面と向かって立ち向かう者はいなかった。多くの者たちが討たれてしまった。新中納言〔平〕知盛は、(能登殿のもとに)使者を送って、「能登殿、あまり(人を殺して)罪を作りなさるな。そんなになぎ回ったからといって、(それほど)よい敵であろうか、いや、そうでもあるまいに。」とおっしゃったところ、(能登殿はその言葉を)「それでは、大将軍〔源義経〕に組めというのだな。」と理解して、太刀や長刀の柄のつばもと近くを握って、源氏の舟に乗り移り乗り移りして、わめき叫んで攻め戦った。(能登殿は)判官〔義経〕を見知っていらっしゃらないので、(鎧、甲など)武具が立派な武者を判官かと目をつけて、(舟に乗り移り)駆け回る。判官もすでに(それに)気づいていて、教経の正面に立ち向かうようにはするが、(実際は)あれこれ行き違うようにして能登殿とはお組みにならない。しかし、どうした拍子だったのだろうか、判官の舟に乗りあたって、「それ(出会ったぞ)。」と判官を目がけて飛びかかるので、判官はかなわないとお思いになったのであろうか、長刀をわきにはさんで、味方の舟で六メートルほど離れているのへ、ひらりと飛び乗りなさった。能登殿は、早業は(判官に)劣っておられたのであろうか、すぐ続いては飛び乗りなさらない。(能登殿は)今はこれまでとお思いになったので、太刀・長刀は海へ投げ入れ、甲も脱いでお捨てになった。鎧の草擦を引っ張ってちぎり捨て、胴だけを着て、髪の結びが解けた乱れ髪の姿になり、大手を広げてお立ちになった。総じて周囲を威圧して人を寄せつけない様子に見えた。恐ろしいなどと言うどころではない。能登殿は大声を上げて、「我はと思う者どもは、近寄って教経と組み討って生け捕りにせよ。(そうして)鎌倉に下って、〔源〕頼朝に会って、一言ものを言おうと思うぞ。寄って来い、寄って来い。」とおっしゃったが、寄って来る者は一人もいなかった。
さて、土佐の国の住人で、安芸郷を領有していた安芸の大領実康という者の子に、安芸太郎実光といって、三十人力の力を持っている大力の剛勇の者がいた。自分に少しも劣らない家来一人、(それに)弟の次郎も人並みはずれた剛の者である。安芸太郎が、能登殿を見申し上げて申したことには、「どんなに勇猛でいらっしゃっても、我ら三人が組みついたなら、たとえ背丈が三十メートルの鬼であっても、どうして組み伏せられないことがあろうか、いや、ありはしない。」と言って、主従三人小舟に乗って、能登殿の舟に押し並べ、「えい。」と言って乗り移り、甲の錣を傾け、太刀を抜いて並んでいっせいに(能登殿に)討ってかかる。能登殿は少しもお騒ぎにならず、まっ先に進んで来た安芸太郎の家来を、(草摺の)裾と裾とが合うほど(近くに)引き寄せて海へどっと蹴込み入れなさる。続いて寄って来る安芸太郎を左手のわきに取ってさしはさみ、弟の次郎は右手のわきにさしはさんで、一回ぐっと締めて、「さあ、きさまら、それではおまえたちが、死出の山を越える供をせよ。」と言って、生年二十六歳で海へさっとお入りになっ(て最期を遂げられ)た。
実践問題購入メール *ルールやマナーを逸脱していると判断されるメールは、以後、送受信不可となる場合があります*
現代文のインデック | 古文のインデックス | 古典文法 | 漢文 | トップページ |
---|