更級日記「源氏物語を読む(かくのみ思ひくんじたるを)」  口語訳

 かくのみ思ひくんじたるを、心もなぐさめむと、心ぐるしがりて、母、物語などもとめて見せ給ふに、げにおのづからなぐさみゆく。紫のゆかりを見て、つゞきの見まほしくおぼゆれど、人かたらひなどもえせず、誰もいまだ都なれぬほどにて、え見つけず。いみじく心もとなく、ゆかしくおぼゆるまゝに、「この源氏の物語、一の巻よりしてみな見せ給へ」と心の内に祈る。親の太秦に籠り給へるにも、こと事なく、この事を申して、いでむまゝにこの物語見はてむと思へど、見えず。いとくちをしく思ひ歎かるゝに、をばなる人の田舎よりのぼりたる所にわたいたれば、「いとうつくしう、生ひなりにけり」など、あはれがり、めづらしがりて、かヘるに「何をかたてまつらむ、まめゝゝしき物は、まさなかりなむ、ゆかしくし給ふなるものをたてまつらむ」とて、源氏の五十余巻、櫃に入りながら、ざい中将、とほぎみ、せり河、しらゝ、あさうづなどいふ物語ども、一袋とり入れて、えて帰る心地の嬉しさぞいみじきや。
 ↓ 現代語訳
 (慕っていた継母との別れや乳母の死去などが重なって)このようにずっとふさぎ込んでいるので、心を慰めようと、心配して、母が、物語などをさがして見せてくださると、ほんとうに気持ちが自然と晴れていく。『源氏物語』の紫上についての巻を読み、続きが読みたく思われるけれど、誰にも相談することもできず、家の者はだれもまだ都に慣れていない時だったので、(それを)見つけ出すこともできない。ひどくじれったく、読みたくてたまらなく思われるので、「この『源氏物語』を一の巻からみなお見せください」と心中で祈る。親が太秦(広隆寺)に参籠なさった際も、他の事はお願いせず、ただこのことばかりをお願いして、寺から出てきたらすぐに(仏様のご利益で手に入る)この物語を終わりまで読んでしまおうと思っていたが、かなえられない。とても残念で嘆かわしい気持ちでいると、おばに当たる人が田舎から上京してきたところに母が私を行かせたので、(おばが)「たいそう立派に成長しましたね」などと懐かしがったり珍しがったりして、帰りがけに、「何を差し上げよう。(櫛や帯などのような)実用的な物ではつまらないでしょう。欲しがっていると伺っている物を差し上げましょう」と言って、源氏の五十余巻を櫃に入ったまま全部と、在中将・とほぎみ・せり河・しらら・あさうづなどの物語を一袋に入れて(くださった。それを)いただいて帰るときのうれしさといったら、どう言い表したらよいか分からない。


はしるゝゝゝ、わづかに見つゝ、心もえず心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、人もまじらず、几帳の内にうち臥してひき出でつゝ見る心地、后のくらゐも何にかはせむ。昼は日ぐらし、夜は目のさめたるかぎり、火を近くともして、これを見るよりほかの事なければ、おのづからなどは、そらにおぼえ浮かぶを、いみじきことに思ふに、夢にいと清げなる僧の、黄なる地の袈裟着たるが来て、「法華経五の巻をとくならへ」といふと見れど、人にも語らず、習はむと思ひかけず、物語の事をのみ心にしめて、われはこのごろわろきぞかし、盛りにならば、かたちもかぎりなくよく、髪もいみじく長くなりなむ。光るの源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやうにこそあらめと思ひける心、まづいとはかなくあさまし。
 ↓ 現代語訳
(これまでは)飛ばし飛ばし、少し見少し見して、話の筋も分からず、じれったく思っていた『源氏物語』を、最初の巻から読み始めて、だれにもじゃまされず几帳のうちで楽な姿勢で次々に読んでいく気持ちは、(女性にとっては最高の幸運と思われている)后の位も問題にならないほどだ。昼は一日中、夜は目が覚めている間じゅう、灯を近くにともして、これを読む以外何もしないので、しぜんに頭の中にそらでも文句が浮かんでくるようになったのをすばらしいことのように思っていると、夢の中に清浄な感じの僧侶で黄色い地の袈裟を着た人が現れて、「法華経の五の巻を早く習いなさい」と言う夢を見たけれど、これを誰にも話さず、(法華経を)習おうとも思わず、物語のことで頭がいっぱいで、私は今はまだ器量はよくない、でも盛りの年ごろになったら、顔立ちも限りなくよくなり、髪もすばらしく長くなるに違いなく、(そして、あの光源氏の思われ人である)夕顔、宇治の大将の(恋人の)浮舟の女君のようになるはずだわ、と思っていた私の心は、何とも他愛なく、とてもあきれ果てたものだった。


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