@十月十余日までも、御帳出でさせ給はず。A西のそばなる御座に、夜も昼も候ふ。B殿の、夜中にも暁にも参り給ひつつ、御乳母の懐をひき探させ給ふに、うちとけて寝たるときなどは、何心もなくおぼほれておどろくも、いといとほしく見ゆ。C心もとなき御ほどを、わが心をやりて、ささげうつくしみ給ふも、ことわりにめでたし。Dあるときは、わりなきわざしかけ奉り給へるを、御紐ひき解きて、御几帳の後ろにてあぶらせ給ふ。E「あはれ、この宮の御しとにぬるるは、うれしきわざかな。このぬれたる、あぶるこそ、思ふやうなる心地すれ。」と、喜ばせ給ふ。
↓ 現代語訳
@十月十日余りまでも、(中宮様はお産の後も)御帳(台の床)からお出になりません。A(私どもは)西側の傍らにある御座に、夜も昼も控えてお仕えする。B殿(道長様)が、夜中にも明け方にもお伺いになさっては、御乳母の懐をお探りに(なって皇子をおかわいがりに)なるので、(乳母が)くつろいで眠っているときなどは、何やらわからないで寝ぼけて目を覚ますのも、とても気の毒に思える。C(皇子は)まだ頼りないご様子なのを、(道長様が)よいご気分で、高い高いをしてかわいがりなさるのも、当然のことながら結構なことである。Dあるときは、(皇子が)とんでもないことをしかけ申し上げなさったのを、(道長様は)濡れた御直衣の)御紐を解いて、御几帳の奥であぶりなさいます。E「ああ、この皇子のおしっこで濡れるのは、うれしいことだなあ。この濡れたのを、あぶるのは、願っていたとおりという気分だよ。」とおっしゃって、お喜びになる。
中務の宮わたりの御ことを、御心に入れて、そなたの心寄せある人とおぼして、語らはせ給ふも、まことに心の内は、思ひゐたること多かり。
↓ 現代語訳
中務の宮に関する御ことを、(道長様は)ご熱心になさって、(私を)中務の宮家に心を傾けている人とお思いになって、ご相談になるにつけても、本当に(私の)心の中は、思案にくれていることが多い。
@行幸近くなりぬとて、殿の内をいよいよつくりみがかせ給ふ。Aよにおもしろき菊の根をたづねつつ、掘りて参る。色々うつろひたるも、黄なるが見どころあるも、さまざまに植ゑ立てたるも、朝霧の絶え間に見わたしたるは、げに老いもしぞきぬべき心地するに、なぞや。Bまして、思ふことの少しもなのめなる身ならましかば、すきずきしくももてなし、若やぎて、常なき世をも過ぐしてまし。Cめでたきこと、おもしろきことを見聞くにつけても、ただ思ひかけたりし心の引く方のみ強くて、もの憂く、思はずに、嘆かしきことのまさるぞ、いと苦しき。Dいかで、今はなほ、もの忘れしなむ。E思ひがひもなし、罪も深かなりなど、明けたてばうちながめて、水鳥どもの思ふことなげに遊び合へるを見る。
F水鳥を水の上とやよそに見む我も浮きたる世を過ぐしつつ
Gかれも、さこそ心をやりて遊ぶと見ゆれど、身はいと苦しかんなりと、思ひよそへらる。
↓ 現代語訳
@帝の行幸が近くなったというので、(道長様は)お邸の内をますます美しく造作し手入れをなさる。A実に美しい菊を見いだしては、根から掘って(人々が持って)参上する。菊のいろいろな色に変色しているのも、黄色で見どころのあるのも、さまざまな様子に植え並べてあるのも、朝霧のかかる切れ目にずっと見通しているのは、ほんとうに老いもなくなるにちがいないという気がするのに、どうしてだろうか。Bまして、もの思いが少しでも世間並みな人間であったとしたら、(このような折には)風流好みにも振る舞い、若い気分になって、無常のこの世をも過ごすことであろうに。Cすばらしいことや、興味を引かれることを見たり聞いたりするにつけても、ただ思いつめた憂愁が引きつける面ばかりが強くて、憂鬱で、思いに任せずに、嘆かわしいことが多くなるのは、とてもつらいことだ。Dなんとかして、今はやはり、もの忘れしてしまおう。E思ってもしようがない、(思い悩むことは)罪深いことだというなどと、夜が明けてくると思いにふけりながら外を眺めて、水鳥たちが何のもの思いもない様子で遊び合っているのを見る。
F水鳥を水の上に浮かんでいる、自分に関係ないものと見ることができようか、いや、できない。この私も、水鳥のように浮いている不安定な生活を送っているのだ。
Gあの水鳥も、あのように気ままに遊んでいると見えるけれど、それ自身は(水面下で懸命に足掻きをして)たいそうつらい生き方をしているようだと、わが身に思い比べられる。
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