枕草子「御前にて人々とも」(二百七十七段)  現代語訳

 @御前にて人々とも、またもの仰せらるるついでなどにも、「世の中の腹立たしう、むつかしう、片時あるべき心地もせで、ただいづちもいづちも行きもしなばやと思ふに、ただの紙の、いと白う清げなるに、よき筆、白き色紙、陸奥紙)など得つれば、こよなう慰みて、さはれ、かくてしばしも生きてありぬべかめり、となむおぼゆる。また、高麗縁のむしろ、青うこまやかに厚きが、縁の紋いと鮮やかに、黒う白う見えたるを引き広げて見れば、何か、なほこの世はさらにさらにえ思ひ捨つまじと、命さへ惜しくなむなる」と申せば、「いみじくはかなきことにも慰むなるかな。姨捨山の月は、いかなる人の見けるにか」など笑はせたまふ。候ふ人も「いみじう安き息災の祈りななり」など言ふ。

 @中宮様(定子)の御前でほかの女房たちと、また中宮様が何かおっしゃられるついでなんかにも、(私が、)「世の中が腹立たしく、がまんできなく、わずかな間も生きられそうにない心地がして、ただもう(地獄でも)どこへなりとも行ってしまいたいと思うようなとき、普通の紙ながら、たいそう白くてきれいな紙に(加えて)、上等の筆、白い色紙、陸奥紙などを手に入れると、この上なく心が晴れ、ままよ、こうしてしばらく生きられそうだ、と思われてきます。また、高麗縁のむしろの、青々としてきめ細かな厚手のもので、縁の紋がとても鮮やかに黒く白く見えているのを引き広げて見ると、どうしてどうして、やはりこの世は思い捨てられないと、命さえ惜しくなってきます。」と申し上げると、(中宮様は、)「とてもたわいないことにも慰められるようね。(月を見ても心が慰められないという)姥捨山の月は、いったいどんな人が見たのだろうか」などとお笑いあそばす。お側にお仕えしている女房も、「とても手軽な災難よけの祈りのようですね」などと言う。


 Aさて後、ほど経て、心から思ひ乱るることありて、里にあるころ、めでたき紙二十を包みて賜はせたり。仰せ言には、「とく参れ」などのたまはせて、「これは、きこしめしおきたることのありしかばなむ。わろかめれば寿命経もえ書くまじげにこそ」と仰せられたる、いみじうをかし。思ひ忘れたりつることを、思しおかせたまへりけるは、なほ、ただ人にてだにをかしかべし。まいて、おろかなるべきことにぞあらぬや。心も乱れて、啓すべき方もなければ、ただ、
 「かけまくもかしこき神のしるしには鶴の齢となりぬべきかな
あまりにや、と啓せさせたまへ」とて参らせつ。台盤所の雑仕ぞ御使ひには来たる。青き綾の単とらせなどして、まことに、この紙を草子に作りなど、持て騒ぐに、むつかしきことも紛るる心地して、をかしと心の内にもおぼゆ。

 Aさてその後しばらくして、心の底から思い悩むことがあり、(宮中を離れて)実家にいるころに、(中宮様が、)すばらしい紙を二十ばかり包んで私に下さった。仰せごととして、「早く参上せよ」などとおっしゃって、(中宮様の仰せ書きで、)「これは、聞き覚えていたことがあったから。(ただ、)この紙は上等ではなさそうなので、寿命経(延命を祈るお経)も書けそうもないようだが。」とおっしゃったのがとても畏れ多い。(私が)忘れていたことを覚えておられたのは、やはり普通の人の場合でもすばらしいに違いない。まして(相手は中宮様なのだから、)並み一通りのことと思ってよいわけがない。(あまりのうれしさに)心も乱れて、(中宮様に)申し上げようもないので、ただ、
   「口に出すのも恐れ多い神/紙の効果で、千年も生きる鶴の寿命となってしまいそうなほどです。
あまりに大げさでございましょうか、と申し上げてください。」と言って(使者を通じて)返事を差し上げた。台盤所の召使が使者として来たのだった。その使者の褒美に青い綾織りの単衣を与えたりして(返した後、)この紙を草子に作るなどして大騒ぎしていると、ほんとうにがまんできないことも紛れる気持ちがして、おもしろいものだと心の中で感じられる。



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