源氏物語「絵物語のすさび」(蛍)   現代語訳


 長雨例の年よりもいたくして、晴るる方なくつれづれなれば、御方々絵物語などのすさびにて明かし暮らしたまふ。明石の御方は、さやうのことをもよしありてしなしたまひて、姫君の御方に奉りたまふ。西の対には、ましてめづらしくおぼえたまふことの筋なれば、明け暮れ書き読み営みおはす。つきなからぬ若人あまたあり、さまざまにめづらかなる人の上などを、まことにやいつはりにや、言ひ集めたる中にも、わがありさまのやうなるはなかりけりと見たまふ。住吉の姫君のさし当たりけむをりはさるものにて、今の世のおぼえもなほ心ことなめるに、主計頭がほとほとしかりけむなどぞ、かの監がゆゆしさを思しなずらヘたまふ。
↓ 現代語訳
 長雨がいつもの年よりもひどくて、晴れる時もなく手持ち無沙汰なので、(六条院の)女の方々は絵物語(を読み書きする)などの慰みごとで、夜を明かし昼を暮らししなさる。明石の君は、そのようなことをも、趣深くお仕上げになって、(紫の上のもとにいる)明石の姫君に差し上げなさる。西の対の屋(にお住い)の玉鬘には、(地方でお育ちになっていて)まして(こんな絵物語など)珍しくお思いなさる方面のことなので、朝晩、書き写したり、読んだりして、せっせと励んでいらっしゃる。そういう玉鬘にぴったりの(物語に造型深い)若い女房達も大勢いる。(玉鬘は)「いろいろと、めったにいないような登場人物の身の上などを、本当なのか嘘なのかわからないがあれこれかき集めている中でも、自分の境遇のような人物はないことだなあと思ってご覧になる。住吉の姫君(がからくも難を逃れた事件)は、あの当時(それが書かれている「住吉物語」の評判が高かったのは)もちろんだが、現在でもなお世間での評判は格別らしいのであるが、それにつけても、(物語の中で)あの主計の頭が、(姫君に迫って)今少しで姫君を奪おうとしたという話と、(玉鬘自身の体験した)あの太夫の監のいまわしい思い出と比較しながら(同じもののように)考えておいでになる。


 殿も、こなたかなたにかかる物どもの散りつつ、御目に離れねば、「あなむつかし。女こそものうるさがらず、人に欺かれむと生まれたるものなれ。ここらの中にまことはいと少なからむを、かつ知る知る、かかるすずろごとに心を移し、はかられたまひて、暑かはしき五月雨の、髪の乱るるも知らで書きたまふよ」とて、笑ひたまふものから、また、「かかる世の古ごとならでは、げに何をか紛るることなきつれづれを慰めまし。さてもこのいつはりどもの中に、げにさもあらむとあはれを見せ、つきづきしくつづけたる、はた、はかなしごとと知りながら、いたづらに心動き、らうたげなる姫君のもの思へる見るにかた心つくかし。またいとあるまじきことかなと見る見る、おどろおどろしくとりなしけるが目おどろきて、静かにまた聞くたびぞ、憎けれどふとをかしきふしあらはなるなどもあるべし。このごろ幼き人の、女房などに時々読まするを立ち聞けば、ものよく言ふ者の世にあるべきかな。そらごとをよくし馴れたる口つきよりぞ言ひ出だすらむとおぼゆれどさしもあらじや」とのたまへば、「げにいつはり馴れたる人や、さまざまにさも酌みはべらむ。ただいとまことのこととこそ思うたまへられけれ」とて、硯を押しやりたまへば、「骨なくも聞こえおとしてけるかな。神代より世にあることを記しおきけるななり。日本紀などはただかたそばぞかし。これらにこそ道々しくくはしきことはあらめ」とて笑ひたまふ。
↓ 現代語訳
 大臣殿(源氏)も、あちらこちらにこうしたもの(絵物語)が散らかっていて、お目について仕方がないので、(玉鬘に)「まあ、困ったものだ。女というものは性懲りもなく、人に騙(だま)されようとして、生まれてきたものなのですね。たくさんの(物語の)中にはほんとうの話はとても少ないだろうに、こころの一方ではそれを知っているくせに、このようなたわいもない話に心を奪われ、だまされなさって、暑苦しい五月雨の折に髪が乱れてしまうのも知らないで、書き写しておられるのですね。」と言ってお笑いになるものの、また(源氏は)「こういう世間の古物語でなくては、ほんとうに何によって、紛らしようもない所在なさを慰めることができよう。それにしても、このいつわりごと(を書いた物語類)の中で、なるほどそうもあろうと、しみじみした人情を見せ、いかにももっともらしく書き続けてある物語には、それはそれで、根もない話とは知りながらも、むやみに興をそそられるし、かわいらしい姫君が物思いに沈んでいる(場面を描いた)のを見ると、ちょっと心が惹かれるものだ。また、とうていありそうにないことだとは思うものの、大げさに取り扱って点が(目を引いて)はっとしてしまい、落ち着いてもう一度聞きなおしてみると憎らしいのだけれど、(はじめは)ふと興味を覚える点が、はっきり認められる類の物語などもあるであろう。このころ、幼い明石の姫君が、女房などに時々させているのを立ち聞きしたところ、では、口の達者な人が世間にはいるようですね。そんな人たちの、作り事ばかり言いなれた口から(このような根も葉もない話を)言い出すのだろうと思われるのですが、ほんとはそうでもないのでしょうか。」とおっしゃると、(玉鬘は)「なるほど、(自分で)?をつき馴れた人なら、そんなふうにも推量するでしょうね。(私には)ただもう本当のことだとしか存ぜられません。」と言って、(これまで筆写に使っていた)硯を横の方へ押しやりなさるので、(源氏は)「無風流にも、(物語を)けなしてしまったなあ。(物語は)神代から世の中に起こったことを書き付けておいたものなのでしょう。『日本紀』などは、ただ一面(の真実)をかいた(にすぎない)ものです。これらの物語類にこそ、道理にかなった詳しいことが書いてあるのでしょう。」と言って、お笑いになる。


 「その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、よきもあしきも、世に経る人のありさまの、見るにも飽かず聞くにもあまることを、後の世にも言ひ伝へさせまほしきふしぶしを、心に籠めがたくて言ひおきはじめたるなり。よきさまに言ふとては、よきことのかぎり選り出でて、人に従はむとては、またあしきさまのめづらしきことをとり集めたる、みなかたがたにつけたるこの世の外のことならずかし。ひとの朝廷のさへ、作りやは変はる、同じ大和の国のことなれば、昔今のに変るベし、深きこと浅きことのけぢめこそあらめ、ひたぶるにそらごとと言ひはてむも、事の心違ひてなむありける。仏のいとうるはしき心にて説きおきたまへる御法も、方便といふことありて、悟りなさ者は、ここかしこ違ふ疑ひをおきつべくなん、方等経の中に多かれど、言ひもてゆけば、一つ旨にありて、菩提と煩悩との隔たりなむ、この、人のよきあしきばかりのことは変りける。よく言ヘば、すべて何ごとも空しからずなりぬや」と、物語をいとわざとのことにのたまひなしつ。
↓ 現代語訳
 (源氏は)「(物語というものは)誰それの身の上と言って、事実をありのままに書きだすことはないけれども、良いことでも悪いことでも、この世に生きる人のありさまで、いくら見ても見飽きず、何度聞いてもなお心惹かれるようなことを、後世にも言い伝えたいようなさまざまなことを、自分の心中に納めておくことができずに、言い残し始めたものなのです。よいように書くときはよいことばかりを選び出して(書き)、(それ゛かりでなく)読者の好みに応じようとして、また、悪い方面の珍しいことを選び集めて(書いて)あるが、(しかし)前悪のどちらに関したことでもすべて、この世以外のことではない。外国の物語でも、(事実に立脚するという)技法が変わっていようか(同じである)。(今ここにある物語類は)同じ日本の物語であるから(技法は同じことで)、昔と今とで変りはあろうし、内容の深さ浅さの違いはあるであろうが、いちがいに作り話と言い切ってしまうのも、事の真相に反しているのである。仏さまが、まことに完全な心遣いで、お説きになっておかれた仏法にも、方便ということがあって、仏法に理解がない者は、(教えの)あちこちが矛盾しているという疑念を持ってしまうようなこともあるでしょう。そういうことは方等経の中に多くあるのですが、せんじ詰めると、同一の趣旨であって、悟りと迷いとの違いが、物語中の人物の善悪くらいの相違となっている。善意に解釈すれば、すべて何事も何かの意義は持っているということになりますよね。」と、物語というものを、わざわざ格別な目的で作られたもののように説明なさるのであった。

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