太宰治「富岳百景」2/2(十月のなかば〜結末)  問題

 十月のなかば過ぎても、私の仕事は遅々として進まぬ。人が恋しい。夕焼け赤き雁の腹雲、二階の廊下で、ひとり煙草を吸いながら、わざと富士には目もくれず、それこそ血の滴るような真っ赤な山の紅葉を、凝視していた。茶店のまえの落ち葉を掃き集めている茶店のおかみさんに、声をかけた。
「おばさん! あしたは、天気がいいね。」
 自分でも、びっくりするほど、うわずって、歓声にも似た声であった。おばさんは箒の手を休め、顔をあげて、不審げに眉をひそめ、
「あした、何かおありなさるの?」
 そう聞かれて、私は窮した。
「何もない。」
 おかみさんは笑い出した。 「おさびしいのでしょう。山へでもお登りになったら?」
「山は、登っても、すぐまた降りなければいけないのだから、つまらない。どの山へ登っても、おなじ富士山が見えるだけで、それを思うと、気が重くなります。」
  @私の言葉が変だったのだろう。おばさんはただ曖昧にうなずいただけで、また枯れ葉を掃いた。
 寝るまえに、部屋のカーテンをそっとあけて硝子窓越しに富士を見る。月のある夜は富士が青白く、水の精みたいな姿で立っている。私は溜息をつく。ああ、富士が見える。星が大きい。あしたは、お天気だな、とそれだけが、幽かに生きている喜びで、そうしてまた、そっとカーテンをしめて、そのまま寝るのであるが、あした、天気だからとて、別段この身には、何ということもないのに、と思えば、おかしく、ひとりで布団の中で苦笑するのだ。苦しいのである。仕事が、――純粋に運筆することの、その苦しさよりも、いや、運筆はかえって私の楽しみでさえあるのだが、そのことではなく、私の世界観、芸術というもの、あすの文学というもの、いわば、新しさというもの、私はそれらについて、まだぐずぐず、思い悩み、誇張ではなしに、身悶えしていた。
 素朴な、自然のもの、したがって簡潔な鮮明なもの、そいつをさっと一挙動でつかまえて、そのままに紙にうつしとること、それよりほかにはないと思い、そう思うときには、眼前の富士の姿も、別な意味をもって目にうつる。この姿は、この表現は、結局、私の考えている「単一表現」の美しさなのかもしれない、と少し富士に妥協しかけて、けれどもやはりどこかこの富士の、あまりにも棒状の素朴には閉口しているところもあり、これがいいなら、ほていさまの置き物だっていいはずだ、ほていさまの置き物は、どうにも我慢できない、あんなもの、とても、いい表現とは思えない、 Aこの富士の姿も、やはりどこか間違っている、これは違う、と再び思いまどうのである。
 朝に、夕に、富士を見ながら、陰鬱な日を送っていた。十月の末に、麓の吉田のまちの、遊女の一団体が、御坂峠へ、おそらくは年に一度くらいの開放の日なのであろう、自動車五台に分乗してやって来た。私は二階から、そのさまを見ていた。自動車から降ろされて、色さまざまの遊女たちは、バスケットからぶちまけられた一群の伝書鳩のように、はじめは歩く方向を知らず、ただかたまってうろうろして、沈黙のまま押し合い、へし合いしていたが、やがてそろそろ、その異様の緊張がほどけて、てんでにぶらぶら歩きはじめた。茶店の店頭に並べられてある絵葉書を、おとなしく選んでいるもの、佇んで富士を眺めているもの、暗く、わびしく、見ちゃおれない風景であった。二階のひとりの男の、いのち惜しまぬ共感も、これら遊女の幸福に関しては、何の加えるところがない。私は、ただ、見ていなければならぬのだ。苦しむものは苦しめ。落ちるものは落ちよ。私に関係したことではない。それが世の中だ。そう無理に冷たく装い、かれらを見下ろしているのだが、私は、かなり苦しかった。
 富士に頼もう。突然それを思いついた。おい、こいつらを、よろしく頼むぜ、そんな気持ちで振り仰げば、寒空のなか、のっそり突っ立っている富士山、そのときの富士はまるで、どてら姿に、ふところ手して傲然とかまえている大親分のようにさえ見えたのであるが、私は、そう富士に頼んで、大いに安心し、気軽くなって茶店の六歳の男の子と、ハチというむく犬を連れ、その遊女の一団を見捨てて、峠のちかくのトンネルの方へ遊びに出かけた。トンネルの入り口のところで、 B三十歳くらいのやせた遊女が、ひとり、何かしらつまらぬ草花を、だまって摘み集めていた。私たちがそばを通っても、振り向きもせず熱心に草花を摘んでいる。この女のひとのことも、ついでに頼みます、とまた振り仰いで富士にお願いしておいて、私は子供の手を引き、とっとと、トンネルの中に入って行った。トンネルの冷たい地下水を、頬に、首筋に、滴々と受けながら、おれの知ったことじゃない、とわざと大股に歩いてみた。
 そのころ、私の結婚の話も、一頓挫のかたちであった。私のふるさとからは、全然、助力が来ないということが、はっきりわかってきたので、私は困ってしまった。せめて百円くらいは、助力してもらえるだろうと、虫のいい、ひとりぎめをして、それでもって、ささやかでも、厳粛な結婚式を挙げ、あとの、世帯を持つに当たっての費用は、私の仕事でかせいで、しようと思っていた。けれども、二、三の手紙の往復により、家から助力は、全くないということが明らかになって、私は、途方に暮れていたのである。このうえは、縁談断られても仕方がない、と覚悟をきめ、とにかく先方へ、事の次第を洗いざらい言ってみよう、と私は単身、峠を下り、甲府の娘さんのお家へお伺いした。さいわい娘さんも、家にいた。私は客間に通され、娘さんと母堂と二人を前にして、悉皆の事情を告白した。ときどき演説口調になって、閉口した。けれども、割に素直に語りつくしたように思われた。娘さんは、落ち着いて、 「それで、お家では、反対なのでございましょうか。」と、首をかしげて私にたずねた。
「いいえ、反対というのではなく、」私は右の手のひらを、そっと卓の上に押し当て、「おまえひとりで、やれ、という具合いらしく思われます。」
「結構でございます。」母堂は、品よく笑いながら、「私たちも、ごらんのとおりお金持ちではございませぬし、ことごとしい式などは、かえって当惑するようなもので、ただ、あなたおひとり、愛情と、職業に対する熱意さえ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます。」
 私は、お辞儀するのも忘れて、しばらく呆然と庭を眺めていた。 C眼の熱いのを意識した。この母に、孝行しようと思った。
 帰りに、娘さんは、バスの発着所まで送って来てくれた。歩きながら、
「どうです。もう少し交際してみますか?」
 きざなことを言ったものである。
「いいえ。もう、たくさん。」娘さんは、笑っていた。
「なにか、質問ありませんか?」いよいよ、ばかである。
「ございます。」
 私は何を聞かれても、ありのまま答えようと思っていた。
「富士山には、もう雪が降ったでしょうか。」
 私は、その質問には拍子抜けがした。
「降りました。頂のほうに、――」と言いかけて、ふと前方を見ると、富士が見える。変な気がした。
「なあんだ。甲府からでも、富士が見えるじゃないか。ばかにしていやがる。」やくざな口調になってしまって、「いまのは、愚問です。ばかにしていやがる。」
 娘さんは、うつむいて、くすくす笑って、
「だって、御坂峠にいらっしゃるのですし、富士のことでもお聞きしなければ、わるいと思って。」
 おかしな娘さんだと思った。
 甲府から帰ってくると、やはり、呼吸ができないくらいにひどく肩が凝っているのを覚えた。
「いいねえ、おばさん。やっぱし御坂は、いいよ。自分の家に帰って来たような気さえするのだ。」
 夕食後、おかみさんと、娘さんと、かわるがわる、私の肩を叩いてくれる。おかみさんの拳は固く、鋭い。娘さんの拳は柔らかく、あまり効きめがない。もっと強く、もっと強くと私に言われて、娘さんは薪を持ち出し、それでもって私の肩をとんとん叩いた。それほどにしてもらわなければ、肩の凝りがとれないほど、私は甲府で緊張して、一心に努めたのである。  甲府へ行ってきて、二、三日、さすがに私はぼんやりして、仕事する気も起こらず、机のまえに座って、とりとめのない落書きをしながら、バットを七箱も八箱も吸い、また寝ころんで、金剛石も磨かずば、という唱歌を、繰り返し繰り返し歌ってみたりしているばかりで、小説は、一枚も書き進めることができなかった。 「お客さん。甲府へ行ったら、わるくなったわね。」
 朝、私が机に頬杖つき、目をつぶって、さまざまのこと考えていたら、私の背後で、床の間拭きながら、 D十五の娘さんは、しんからいまいましそうに、多少、とげとげしい口調で、そう言った。私は、振り向きもせず、
「そうかね。わるくなったかね。」
 娘さんは、拭き掃除の手を休めず、
「ああ、わるくなった。この二、三日、ちっとも勉強進まないじゃないの。あたしは毎朝、お客さんの書き散らした原稿用紙、番号順にそろえるのが、とっても、たのしい。たくさんお書きになっていれば、うれしい。ゆうべもあたし、二階へそっと様子を見にきたの、知ってる? お客さん、布団頭からかぶって、寝てたじゃないか。」
 私は、ありがたいことだと思った。大袈裟な言い方をすれば、これは人間の生き抜く努力に対しての、純粋な声援である。なんの報酬も考えていない。私は、娘さんを、美しいと思った。

 十一月に入ると、もはや御坂の寒気、堪えがたくなった。茶店では、ストーブを備えた。
「お客さん、二階はお寒いでしょう。お仕事のときは、ストーブのそばでなさったら。」と、おかみさんは言うのであるが、私は、人の見ているまえでは、仕事のできないたちなので、それは断った。おかみさんは心配して、峠の麓の吉田へ行き、炬燵を一つ買ってきた。私は二階の部屋でそれにもぐって、この茶店の人たちの親切には、しんからお礼を言いたく思って、けれども、もはやその全容の三分の二ほど、雪をかぶった富士の姿を眺め、また近くの山々の、蕭条たる冬木立に接しては、これ以上、この峠で、皮膚を刺す寒気に辛抱していることも無意味に思われ、山を下ることに決意した。山を下る、その前日、私は、どてら二枚かさねて着て、茶店の椅子に腰かけて、熱い番茶を啜っていたら、冬の外套着た、タイピストでもあろうか、若い知的の娘さんがふたり、トンネルの方から、何かきゃっきゃっ笑いながら歩いてきて、ふと眼前に真っ白い富士を見つけ、打たれたように立ち止まり、それから、ひそひそ相談の様子で、そのうちのひとり、眼鏡かけた、色の白い子が、にこにこ笑いながら、私のほうへやって来た。
「あいすみません。シャッター切ってくださいな。」
 私は、(  )した。私は機械のことには、あまり明るくないのだし、写真の趣味は皆無であり、しかも、どてらを二枚もかさねて着ていて、茶店の人たちさえ、山賊みたいだ、と言って笑っているような、そんなむさくるしい姿でもあり、たぶんは東京の、そんな華やかな娘さんから、ハイカラの用事を頼まれて、内心ひどく狼狽したのである。けれども、また思い直し、こんな姿はしていても、やはり、見る人が見れば、どこかしら、華奢な俤もあり、写真のシャッターくらい器用に手さばきできるほどの男に見えるのかもしれない、などと少し(  )した気持ちも手伝い、私は(  )を装い、娘さんの差し出すカメラを受け取り、 E(  )口調で、シャッターの切り方をちょっとたずねてみてから、(  )、レンズをのぞいた。真ん中に大きい富士、その下に小さい、罌粟の花二つ。ふたりそろいの赤い外套を着ているのである。ふたりは、ひしと抱き合うようにして寄り添い、きっとまじめな顔になった。私は、(  )ならない。カメラ持つ手がふるえて、どうにもならぬ。笑いをこらえて、レンズをのぞけば、罌粟の花、いよいよ澄まして、固くなっている。どうにも狙いがつけにくく、私は、ふたりの姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズいっぱいにキャッチして、富士山、さようなら、お世話になりました。パチリ。
「はい、うつりました。」
「ありがとう。」
 ふたり声をそろえてお礼を言う。家へ帰って現像してみたときには驚くだろう。富士山だけが大きく大きく写っていて、ふたりの姿はどこにも見えない。
 その明くる日に、山を下りた。まず、甲府の安宿に一泊して、その明くる朝、安宿の廊下の汚い欄干によりかかり、富士を見ると、甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出している。酸漿に似ていた。

問1 A「この富士の姿も、やはりどこか間違っている、これは違う」と思う理由について述べた次の文の空欄に、同段落から指定された字数の一続きの語句を抜き出して記しなさい。ただし、句読点・記号も1字と数える。★★

 富士の【 5字 】に【 10字 】を認めるのならば、通俗的な富士のイメージをそのまま認めることになるから。

問2 B「三十歳くらいのやせた遊女が、ひとり、何かしらつまらぬ草花を、だまって摘み集めていた。私たちがそばを通っても、振り向きもせず熱心に草花を摘んでいる。」と同じような意味を持つエピソードを、このサイトの『「富岳百景」1/2』からみつけて簡潔にまとめて記しなさい。★★★

問3 C「眼の熱いのを意識した」について、その理由を分かりやすく説明しなさい。★★★

問4 D「十五の娘さんは、しんからいまいましそうに、多少、とげとげしい口調で、そう言った」について、「娘さん」の心理を分かりやすく説明しなさい。★★★

問5  の空欄に次の語群から適当な表現を選んで記しなさい。★★
   【 興味津々 わななきわななき 無関心 おかしくて 迷惑そうな 浮き浮き はずかしくて なにげなさそうな そわそわ 照れくさくて へどもど うろうろ こっそり   いらいら  平静 無関係 】


advanced Q.1 @「私の言葉が変だったのだろう。おばさんはただ曖昧にうなずいただけで、また枯れ葉を掃いた。」について、「私の言葉」を「おばさん」はどう受け取ったと想像できるか。2点でそれぞれ『…ではないか、と変に思った』と言い方で記しなさい。

advanced Q.2 E「(  )口調で」ちょっとたずねた「私」の心理はどのようなものか、分かりやすく、かつ、簡潔に説明しなさい。



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