鈴木孝夫「ものとことば」 解答/解説
問1 ものがあれば必ずそれを呼ぶ名としてのことばがあり、さらに、同じものが言語が違えば別のことばで呼ばれるという前提。(53字)
(Aまでの要約をすることになる問になります。分かりにくいけど、たとえば、水のしずくが凍って棒状に垂れ下がったものを、私たちは《つらら》と呼びますが、トルコ語には《つらら》に該当する語がないことを考えてみましょう。つまり、《つらら》があってもトルコ語圏の人々には「それを呼ぶ名」がないことになり、同時に、日本語の《つらら》はトルコ語で「別の名で呼ばれる」ことはないということを言っているわけです。)
問2 ことばがものをあらしめるという立場
(「初めにことばありき」の同内容の別表現になる。評論ではこのような《言い換え・同内容の別表現》を捉えながら読みすすめることが必要。)
問3 人がその上で何かをする平面
(類似する表現が三箇所あることに気づきましたか…?)
問4 机、棚、床、椅子
問5 ヘ
(「恣意」とは、「気ままな心・自分勝手な考え」が辞書上の意味。ここでは、直前「たえず生成し、常に流動している世界を、あたかも整然と区別された、ものやことの集合であるかのような姿の下に、人間に提示してみせる」のが言語であることを、「恣意」と言っている。)
aQ.1 異なった名称は、程度の差こそあれ、かなり違ったものを、私たちに提示している (37字)
aQ.2 人間がおびただしい数のものやことを表すことばに囲まれて生活していること。
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【ことばがものをあらしめる…?】
「あらしめる」とは、あるようにするの古い言い方。ここでは、ことばがものをあるようにするということで、ことばがあるからものがあると言い換えてもいい。
魚を買うとき、その表示(=ことば)にツバスとあり「この魚は何?」と戸惑うことがあります。ブリはハマチの成長したものと知っていても、ツバス・メジロと表示されていたら、ブリ・ハマチと同じ魚(もの)だとわかる人は、おさかな通(つう)ではと思います。
ぶり(鰤)は出世魚のひとつで、成長する順に、モジャコ<ツバス<ハマチ<メジロ<ブリ(地域によって異なるといいます)という名(=ことば)がついていてややこしいのですが、漁師や魚屋さんには商品として重要な区別でしょう。また、「メジロよりツバスがあっさりしていて好きです。」と言われても、メジロ・ツバスが何か知らない人には、何がいわれているのかわからない。ツバス(=もの)は存在していても存在しないに等しい。ハマチより小型のものと知るとそういう魚(もの)が存在することとなるというわけです。
また、同じように食べ物で、こちらはトンビでこちらはシンタマと言われてわかる人は多くないでしょう。
トンビとは牛の「一頭から2kgしか取れない希少な部位です。肩の一部ですが、肉質はもも。味はさっぱりしていて甘く上品な味わい」の部位、シンタマとは牛のももの一部で「木の葉のようなかわいい形と美しい霜降りで口の中でトロける感がある」部位を言うそうです。トンビやシンタマを目にしてもその名(=ことば)を知らなくては、トンビやシンタマ(=もの)は存在せず、ただ赤い肉が見えるだけということになります。
ぶりと牛肉のいずれの例も、《ことばがものをあらしめる》ということになります。
さらに、近年リテラシーということばが、ITリテラシーとか、メディアリテラシーというふうによくつかわれます。literacyということばはもとは識字(能力)の意味だが、近年、「それぞれの分野で用いられている記述体系を理解し、整理し、活用する能力」としてしばしば使われる。その意味のリテラシーと同意義となる日本語のことばはない。ということは、そういうことが日本人の観念にはなかったが、リテラシーということばが登場することによって、そういう能力(こと)が確かにあると認識されることになり、重要な能力だと知れ渡ることになる。今、「リテラシー」は日本語で外来語のことばとして普通に使われているということになる。
これは、《ことばがことをあらしめる》ことになります。
【異なった名称は…かなり違ったものを、私たちに提示している…?】
本文でも取り上げられている「犬」ということばは、英語ではdog。でも、英語で、「彼女はdogだ。」という文のdogがコンテクストによってはブスの意味になることは、日本語からは理解できない。たしかに、dogは犬の意味だが、魅力のない女・ブスとか演劇や音楽の失敗作という意味でも使われると辞書に登録されている。
また、日本語で「彼女は犬だ。」が、コンテクストによっては彼女はまわしもの・間者(かんじゃ)だという意味になる。つまり、「犬」とdogは共通する意味を持つことばともいえるし、かなり異なる意味やニュアンス・イメージを持つことばといえる。「いぬ」=dogであるとも、「いぬ」=dogではないともいえる。「異なった名称は…かなり違ったものを、私たちに提示している」ということになります。
【ことばというものは、渾沌とした、連続的で切れ目のない素材の世界に、人間の見地から、人間にとって有意義と思われるしかたで、虚構の分節を与え、そして分類する働きを担っている…?】
例えば、「イヌ」「ヤケン」「ヤマイヌ」「オオカミ」は、どれもイヌ科イヌ属の動物ですが、何が違うのでしょうか?
イヌということばはイヌ科イヌ属の動物の総称として、また、「うちのイヌは〜」などと使われます。ヤケンとは飼い主のいないイヌのことでノライヌともいい、現代の日本では管理が行き届いていてほとんど目にしないが、途上国では普通に通りを闊歩している。ヤマイヌとは野生化したイヌのことで、オオカミは「イヌ科の哺乳類。大きさは大型のイヌくらい。耳は立ち、尾は長く、ふさふさした毛がある」。総称するとイヌ科イヌ属の動物(=渾沌とした、連続的で切れ目のない素材の世界)を、人間の生活圏からの距離(=人間の見地から、人間にとって有意義と思われるしかた)によって、イヌ/ヤケン/ヤマイヌ/オオカミと便宜的に分類している(虚構の分節を与える)ことになる。
「虚構の分節を与え」が分かりにくいかもしれない。ここでは、イヌ科イヌ属の動物をことばによって人間にとって意味あるように便宜的にいくつかに分割するようなことをいう。その意味で、「イヌ」「ヤケン」「ヤマイヌ」「オオカミ」という名は人間が恣意的に名付けたことばなのである、ということになります
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本文をさらに敷衍(ふえん)すれば、次のようなことになります。
私たちは、ことばなくてはモノもコトも認識できないし、思考することもできない。ことば一つ一つは意味・ニュアンス・イメージを持っている。そして、ことばを独自の構造規範(広い意味での文法)に従って組み立てて、認識したり、思考したり、感受したり、判断したり、それに基づいて行動している。このことばは、それによってより深く知り判断できる可能性を秘めているといえるし、それに制約されているともいえる。
ことばがものやことをあらしめる、ことばは混沌とした世界に虚構の文節を与えるという言語=世界観、よく咀嚼して思考の引き出しの一つにしておくと重宝(ちょうほう)します。
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