夏目漱石「こころ」4/4 (私は猿楽町から…血潮をはじめて見たのです。) 問題

 私は猿楽町から神保町の通りへ出て、小川町のほうへ曲がりました。私がこの界隈を歩くのは、いつも古本屋をひやかすのが目的でしたが、その日は手營のした書物などを眺める気が、どうしても起こらないのです。私は歩きながらたえずうちのことを考えていました。私にはさっきの奥さんの記憶がありました。それからお嬢さんがうちへ帰ってからの想像がありました。私はつまりこの二つのもので歩かせられていたようなものです。そのうえ私は時々往来の真ん中で我知らずふと立ち止まりました。そうして今ごろは奥さんがお嬢さんにもうあの話をしている時分だろうなどと考えました。またあるときは、もうあの話が済んだころだとも思いました。
 私はとうとう万世橋を渡って、明神の坂を上がって、本郷台へ来て、それからまた菊坂を降りて、しまいに小石川の谷へ降りたのです。私の歩いた距離はこの三区にまたがって、いびつな円を描いたともいわれるでしょうが、私はこの長い散歩の間ほとんどKのことを考えなかったのです。今そのときの私を回顧して、なぜだと自分にきいてみてもいっこうわかりません。ただ不思議に思うだけです。私の心がKを忘れ得るくらい、一方に緊張していたとみればそれまでですが、私の良心がまたそれを許すべきはずはなかったのですから。
 AKに対する私の良心が復活したのは、私がうちの格子を開けて、玄関から座敷へ通るとき、すなわち例のごとく彼の部屋を抜けようとした瞬間でした。彼はいつものとおり机に向かって書見をしていました。彼はいつものとおり書物から目を離して、私を見ました。しかし彼はいつものとおり今帰ったのかとは言いませんでした。彼は「病気はもういいのか、医者へでも行ったのか。」とききました。私はその刹那に、彼の前に手をついて、謝りたくなったのです。しかも私の受けたそのときの衝動は決して弱いものではなかったのです。もしKと私がたった二人曠野の真ん中にでも立っていたならば、私はきっと良心の命令に従って、その場で彼に謝罪したろうと思います。しかし奥には人がいます。私の自然はすぐそこでくい止められてしまったのです。そうして悲しいことに永久に復活しなかったのです。
 夕飯のときKと私はまた顔を合わせました。 aQ1なんにも知らないKはただ沈んでいただけで、少しも疑い深い目を私に向けません。 aQ2なんにも知らない奥さんはいつもよりうれしそうでした。私だけがすべてを知っていたのです。私は鉛のような飯を食いました。そのときお嬢さんはいつものようにみんなと同じ食卓に並びませんでした。奥さんが催促すると、次の部屋でただいまと答えるだけでした。それをKは不思議そうに聞いていました。しまいにどうしたのかと奥さんに尋ねました。奥さんはおおかたきまりが悪いのだろうと言って、ちょっと私の顔を見ました。Kはなお不思議そうに、なんできまりが悪いのかと追究しにかかりました。奥さんは微笑しながらまた私の顔を見るのです。
 私は食卓についた初めから、奥さんの顔つきで、 B事のなりゆきをほぼ推察していました。しかしKに説明を与えるために、私のいる前で、それをことごとく話されてはたまらないと考えました。奥さんはまたそのくらいのことを平気でする女なのですから、私はひやひやしたのです。幸いにKはまたもとの沈黙に返りました。平生より多少機嫌のよかった奥さんも、とうとう私の恐れを抱いている点までは話を進めずにしまいました。私はほっと一息して部屋へ帰りました。しかし私がこれから先Kに対してとるべき態度は、どうしたものだろうか、私はそれを考えずにはいられませんでした。私はいろいろの弁護を自分の胸でこしらえてみました。けれどもどの弁護もKに対して面と向かうには足りませんでした。卑怯な私はついに自分で自分をKに説明するのがいやになったのです。

 私はそのまま二、三日過ごしました。その二、三日の間Kに対する絶えざる不安が私の胸を重くしていたのは言うまでもありません。私はただでさえなんとかしなければ、彼にすまないと思ったのです。そのうえ奥さんの調子や、お嬢さんの態度が、始終私を突っつくように刺激するのですから、私はなおつらかったのです。どこか男らしい気性を備えた奥さんは、いつ私のことを食卓でKにすっぱ抜かないとも限りません。それ以来ことに目立つように思えた私に対するお嬢さんの挙止動作も、Kの心を曇らす不審の種とならないとは断言できません。私はなんとかして、私とこの家族との間に成り立った新しい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。しかし倫理的に弱点を持っていると、自分で自分を認めている私には、それがまた至難のことのように感ぜられたのです。
 私はしかたがないから、奥さんに頼んでKに改めてそう言ってもらおうかと考えました。むろん私のいないときにです。しかしありのままを告げられては、直接と間接の区別があるだけで、面目のないのに変わりはありません。といって、こしらえごとを話してもらおうとすれば、奥さんからその理由を詰問されるに決まっています。もし奥さんにすべての事情を打ち明けて頼むとすれば、私は好んで自分の弱点を自分の愛人とその母親の前にさらけ出さなければなりません。まじめな私には、それが私の未来の信用に関するとしか思われなかったのです。結婚する前から恋人の信用を失うのは、たとい一分一厘でも、私には堪えきれない不幸のように見えました。
 要するに私は正直な道を歩くつもりで、つい足を滑らしたばか者でした。もしくは狡猾な男でした。そうしてそこに気のついている者は、今のところただ天と私の心だけだったのです。しかし立ち直って、もう一歩前へ踏み出そうとするには、今滑ったことをぜひとも周囲の人に知られなければならない窮境に陥ったのです。私はあくまで滑ったことを隠したがりました。同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。私はこの間に挟まってまた立ちすくみました。
 五、六日たった後、奥さんは突然私に向かって、Kにあのことを話したかときくのです。私はまだ話さないと答えました。するとなぜ話さないのかと、奥さんが私をなじるのです。私はこの問いの前に固くなりました。そのとき奥さんが私を驚かした言葉を、私は今でも忘れずに覚えています。
 「道理でわたしが話したら変な顔をしていましたよ。あなたもよくないじゃありませんか、平生あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは。」
 私はKがそのとき何か言いはしなかったかと奥さんにききました。奥さんは別段なんにも言わないと答えました。しかし私は進んでもっと細かいことを尋ねずにはいられませんでした。奥さんはもとより何も隠すわけがありません。たいした話もないがと言いながら、いちいちKの様子を語って聞かせてくれました。
 奥さんの言うところを総合して考えてみると、Kは Cこの最後の打撃を、最も落ち着いた驚きをもって迎えたらしいのです。Kはお嬢さんと私との間に結ばれた新しい関係について、最初はそうですかとただ一口言っただけだったそうです。しかし奥さんが、「あなたも喜んでください。」と述べたとき、彼は初めて奥さんの顔を見て微笑をもらしながら、「おめでとうございます。」と言ったまま席を立ったそうです。そうして茶の間の障子を開ける前に、また奥さんを振り返って、「結婚はいつですか。」ときいたそうです。それから「何かお祝いをあげたいが、私は金がないからあげることができません。」と言ったそうです。奥さんの前に座っていた私は、その話を聞いて胸がふさがるような苦しさを覚えました。

 勘定してみると奥さんがKに話をしてからもう二日余りになります。その間Kは私に対して少しも以前と異なった様子を見せなかったので、私は全くそれに気がつかずにいたのです。彼の超然とした態度はたとい外観だけにもせよ、敬服に値すべきだと私は考えました。彼と私を頭の中で並べてみると、彼のほうがはるかに立派に見えました。「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ。」という感じが私の胸に渦巻いて起こりました。私はそのときさぞKが軽蔑していることだろうと思って、一人で顔を赤らめました。しかし今さら aQ3Kの前に出て、恥をかかせられるのは、私の自尊心にとって大いな苦痛でした。
 私が進もうかよそうかと考えて、ともかくも明くる日まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。ところがその晩に、Kは自殺して死んでしまったのです。私は今でもその光景を思い出すとぞっとします。いつも東枕で寝る私が、その晩に限って、偶然西枕に床を敷いたのも、何かの因縁かもしれません。私は枕元から吹き込む寒い風でふと目を覚ましたのです。見ると、いつも立て切ってあるKと私の部屋との仕切りの襖が、この間の晩と同じくらい開いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。私は暗示を受けた人のように、床の上にひじをついて起き上がりながら、きっとKの部屋をのぞきました。ランプが暗くともっているのです。それで床も敷いてあるのです。しかし掛け布団ははね返されたようにすそのほうに重なり合っているのです。そうしてK自身は向こう向きに突っ伏しているのです。
 私はおいと言って声をかけました。しかしなんの答えもありません。おいどうかしたのかと私はまたKを呼びました。それでもKの身体はちっとも動きません。私はすぐ起き上がって、敷居際まで行きました。そこから彼の部屋の様子を、暗いランプの光で見回してみました。
 そのとき私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされたときのそれとほぼ同じでした。私の目は彼の部屋の中を一目見るやいなや、あたかもガラスで作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立ちに立ちすくみました。それが疾風のごとく私を通過したあとで、私はまたああしまったと思いました。もう取り返しがつかないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯をものすごく照らしました。そうして私はがたがた震え出したのです。
 それでも私はついに私を忘れることができませんでした。私はすぐ机の上に置いてある手紙に目をつけました。それは予期どおり私の名あてになっていました。私は夢中で封を切りました。しかし中には D私の予期したようなことはなんにも書いてありませんでした。私は私にとってどんなにつらい文句がその中に書き連ねてあるだろうと予期したのです。そうして、もしそれが奥さんやお嬢さんの目に触れたら、どんなに軽蔑されるかもしれないという恐怖があったのです。私はちょっと目を通しただけで、まず助かったと思いました。(もとより世間体の上だけで助かったのですが、その世間体がこの場合、私にとっては非常な重大事件に見えたのです。)
 手紙の内容は簡単でした。そうしてむしろ抽象的でした。自分は薄志弱行でとうてい行く先の望みがないから、自殺するというだけなのです。それから今まで私に世話になった礼が、ごくあっさりした文句でそのあとにつけ加えてありました。世話ついでに死後の片づけ方も頼みたいという言葉もありました。奥さんに迷惑をかけてすまんからよろしくわびをしてくれという句もありました。国元へは私から知らせてもらいたいという依頼もありました。必要なことはみんな一口ずつ書いてある中にお嬢さんの名前だけはどこにも見えません。私はしまいまで読んで、すぐKがわざと回避したのだということに気がつきました。しかし私の最も痛切に感じたのは、最後に墨の余りで書き添えたらしく見える、 aQ4もっと早く死ぬべきだったのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句でした。
 私は震える手で、手紙を巻き収めて、再び封の中へ入れました。 E私はわざとそれをみんなの目につくように、元のとおり机の上に置きました。そうして振り返って、襖にほとばしっている血潮を初めて見たのです。

問1 A「Kに対する私の良心が復活した」のはなぜか、物語の内容に即して簡潔に説明しなさい。

問2 B「事のなりゆき」とは具体的にはどういうものか。物語の内容に即して簡潔に説明しなさい。

問3 C「この最後の打撃」とは具体的にはどういうものか。物語の内容に即して簡潔に説明しなさい。

問4 D「私の予期したようなこと」とは具体的にはどういうものか。15字以内で説明しなさい。

問5 E「私はわざとそれをみんなの目につくように、元のとおり机の上に置きました。」について、「私」がそうしたのはにはどういう意図があるのか。30〜35字で説明しなさい。


advanced Q. aQ1なんにも知らないK、および、aQ2なんにも知らない奥さんとあるが、Kと奥さんの二人は何について「なんにも知らない」のか。それぞれ物語の内容に即してわかりやすく答えよ。

advanced Q. aQ3Kの前に出て、恥をかかせられるとは、「私」が具体的には何をすることになるか、文中の漢字二字の熟語を抜き出して答えなさい。

advanced Q. aQ4もっと早く死ぬべきだったとは、具体的にはいつ「死ぬべきだった」と考えられるか。『…時』と言う言い方で簡潔に記しなさい。




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