夏目漱石「こころ」3/4 (そのころは覚醒とか〜ずんずん曲がってしまいました。) 問題

 そのころは覚醒とか新しい生活とかいう文字のまだない時分でした。しかしKが古い自分をさらりと投げ出して、一意に新しい方角へ走り出さなかったのは、現代人の考えが彼に欠けていたからではないのです。彼には投げ出すことのできないほど尊い過去があったからです。彼はそのために今日まで生きてきたと言ってもいいくらいなのです。だからKが一直線に愛の目的物に向かって猛進しないといって、決してその愛のなまぬるいことを証拠だてるわけにはゆきません。いくら熾烈な感情が燃えていても、彼はむやみに動けないのです。前後を忘れるほどの衝動が起こる機会を彼に与えない以上、Kはどうしてもちょっと踏みとどまって自分の過去を振り返らなければならなかったのです。そうすると過去がさし示す道を今までどおり歩かなければならなくなるのです。そのうえ彼には現代人の持たない強情と我慢がありました。私は aQ1この双方の点においてよく彼の心を見抜いていたつもりなのです。
 上野から帰った晩は、私にとって比較的安静な夜でした。私はKが部屋へ引き上げたあとを追いかけて、彼の机のそばに座り込みました。Aそうしてとりとめもない世間話をわざと彼にしむけました。彼は迷惑そうでした。私の目には勝利の色が多少輝いていたでしょう。私の声にはたしかに得意の響きがあったのです。私はしばらくKと一つ火鉢に手をかざしたあと、自分の部屋に帰りました。ほかのことにかけては何をしても彼に及ばなかった私も、そのときだけは恐るるに足りないという自覚を彼に対して持っていたのです。
 私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然私の名を呼ぶ声で目を覚ましました。見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。そうして彼の部屋には宵のとおりまだ明かりがついているのです。急に世界の変わった私は、少しの間口をきくこともできずに、ぼうっとして、その光景を眺めていました。
 そのときKはもう寝たのかとききました。Kはいつでも遅くまで起きている男でした。私は黒い影法師のようなKに向かって、何か用かときき返しました。Kはたいした用でもない、ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでにきいてみただけだと答えました。Kはランプの灯を背中に受けているので、彼の顔色や目つきは、全く私にはわかりませんでした。けれども彼の声は不断よりもかえって落ち着いていたくらいでした。
 Kはやがて開けた襖をぴたりと立て切りました。私の部屋はすぐもとの暗闇に帰りました。私はその暗闇より静かな夢を見るべくまた目を閉じました。私はそれぎり何も知りません。しかし翌朝になって、昨夕のことを考えてみると、なんだか不思議でした。私はことによると、すべてが夢ではないかと思いました。それで飯を食うとき、Kにききました。Kはたしかに襖を開けて私の名を呼んだと言います。なぜそんなことをしたのかと尋ねると、別にはっきりした返事もしません。調子の抜けたころになって、ちかごろは熟睡ができるのかとかえって向こうから私に問うのです。私はなんだか変に感じました。
 その日はちょうど同じ時間に講義の始まる時間割りになっていたので、二人はやがていっしょにうちを出ました。今朝から昨夕のことが気にかかっている私は、途中でまたKを追究しました。けれどもKはやはり私を満足させるような答えをしません。私はあの事件について何か話すつもりではなかったのかと念を押してみました。Kはそうではないと強い調子で言い切りました。昨日上野で「その話はもうやめよう。」と言ったではないかと注意するごとくにも聞こえました。Kはそういう点にかけて鋭い自尊心を持った男なのです。ふとそこに気のついた私は突然彼の用いた「覚悟」という言葉を連想し出しました。Bすると今までまるで気にならなかったその二字が妙な力で私の頭を押さえ始めたのです
 上野から帰った晩は、私にとって比較的安静な夜でした。私はKが部屋へ引き上げたあとを追いかけて、彼の机のそばに座り込みました。そうしてとりとめもない世間話をわざと彼にしむけました。彼は迷惑そうでした。私の目には勝利の色が多少輝いていたでしょう。私の声にはたしかに得意の響きがあったのです。私はしばらくKと一つ火鉢に手をかざしたあと、自分の部屋に帰りました。ほかのことにかけては何をしても彼に及ばなかった私も、そのときだけは恐るるに足りないという自覚を彼に対して持っていたのです。
 私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然私の名を呼ぶ声で目を覚ましました。見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。そうして彼の部屋には宵のとおりまだ明かりがついているのです。急に世界の変わった私は、少しの間口をきくこともできずに、ぼうっとして、その光景を眺めていました。
 そのときKはもう寝たのかとききました。Kはいつでも遅くまで起きている男でした。私は黒い影法師のようなKに向かって、何か用かときき返しました。Kはたいした用でもない、ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでにきいてみただけだと答えました。Kはランプの灯を背中に受けているので、彼の顔色や目つきは、全く私にはわかりませんでした。けれども彼の声は不断よりもかえって落ち着いていたくらいでした。
 Kはやがて開けた襖をぴたりと立て切りました。私の部屋はすぐもとの暗闇に帰りました。私はその暗闇より静かな夢を見るべくまた目を閉じました。私はそれぎり何も知りません。しかし翌朝になって、昨夕のことを考えてみると、なんだか不思議でした。私はことによると、すべてが夢ではないかと思いました。それで飯を食うとき、Kにききました。Kはたしかに襖を開けて私の名を呼んだと言います。なぜそんなことをしたのかと尋ねると、別にはっきりした返事もしません。調子の抜けたころになって、ちかごろは熟睡ができるのかとかえって向こうから私に問うのです。私はなんだか変に感じました。
 その日はちょうど同じ時間に講義の始まる時間割りになっていたので、二人はやがていっしょにうちを出ました。今朝から昨夕のことが気にかかっている私は、途中でまたKを追究しました。けれどもKはやはり私を満足させるような答えをしません。私はあの事件について何か話すつもりではなかったのかと念を押してみました。Kはそうではないと強い調子で言い切りました。昨日上野で「その話はもうやめよう。」と言ったではないかと注意するごとくにも聞こえました。Kはそういう点にかけて鋭い自尊心を持った男なのです。ふとそこに気のついた私は突然彼の用いた「覚悟」という言葉を連想し出しました。すると今までまるで気にならなかったその二字が妙な力で私の頭を押さえ始めたのです。
 Kの果断に富んだ性格は私によく知れていました。彼のこの事件についてのみ優柔なわけも私にはちゃんとのみ込めていたのです。Cつまり私は一般を心得たうえで、例外の場合をしっかり捕まえたつもりで得意だったのです。ところが「覚悟」という彼の言葉を、頭の中で何べんも咀嚼しているうちに、私の得意はだんだん色を失って、しまいにはぐらぐら動き始めるようになりました。私はこの場合もあるいは彼にとって例外でないのかもしれないと思い出したのです。すべての疑惑、煩悶、懊悩を一度に解決する D最後の手段を、彼は胸の中に畳み込んでいるのではなかろうかと疑ぐり始めたのです。そうした新しい光で覚悟の二字を眺め返してみた私は、はっと驚きました。そのときの私がもしこの驚きをもって、もう一ぺん彼の口にした覚悟の内容を公平に見回したらば、まだよかったかもしれません。私はただKがお嬢さんに対して進んでゆくという意味にその言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのがすなわち彼の覚悟だろうといちずに思い込んでしまったのです。

 私は私にも E最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。私はすぐその声に応じて勇気を振り起こしました。私はKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならないと覚悟を決めました。私は黙って機会をねらっていました。しかし二日たっても三日たっても、私はそれを捕まえることができません。私はKのいないとき、またお嬢さんの留守な折を待って、奥さんに談判を開こうと考えたのです。しかし片方がいなければ、片方がじゃまをするといったふうの日ばかり続いて、どうしても「今だ。」と思う好都合が出てきてくれないのです。私はいらいらしました。
 一週間の後私はとうとう堪え切れなくなって仮病をつかいました。奥さんからもお嬢さんからも、K自身からも、起きろという催促を受けた私は、生返事をしただけで、十時ごろまで布団をかぶって寝ていました。私はKもお嬢さんもいなくなって、家の中がひっそり静まったころを見計らって寝床を出ました。私の顔を見た奥さんは、すぐどこが悪いかと尋ねました。食べ物は枕元へ運んでやるから、もっと寝ていたらよかろうと忠告してもくれました。身体に異状のない私は、とても寝る気にはなれません。顔を洗っていつものとおり茶の間で飯を食いました。そのとき奥さんは長火鉢の向こう側から給仕をしてくれたのです。私は朝飯とも昼飯とも片づかない茶椀を手に持ったまま、どんなふうに問題を切り出したものだろうかと、そればかりに屈託していたから、外観からは実際気分のよくない病人らしく見えただろうと思います。
 私は飯をしまってたばこをふかし出しました。私が立たないので奥さんも火鉢のそばを離れるわけにゆきません。下女を呼んで膳を下げさせたうえ、鉄瓶に水をさしたり、火鉢の縁をふいたりして、私に調子を合わせています。私は奥さんに特別な用事でもあるのかと問いました。奥さんはいいえと答えましたが、今度は向こうでなぜですときき返してきました。私は実は少し話したいことがあるのだと言いました。奥さんはなんですかと言って、私の顔を見ました。奥さんの調子はまるで私の気分に入り込めないような軽いものでしたから、私は次に出すべき文句も少し渋りました。
 私はしかたなしに言葉のうえで、いいかげんにうろつき回った末、 aQ2Kがちかごろ何か言いはしなかったかと奥さんにきいてみました。奥さんは思いも寄らないというふうをして、「何を?」とまた反問してきました。そうして私の答える前に、「あなたには何かおっしゃったんですか。」とかえって向こうできくのです。

 Kから聞かされた打ち明け話を、奥さんに伝える気のなかった私は、「いいえ。」と言ってしまったあとで、すぐ自分のうそを快からず感じました。しかたがないから、別段何も頼まれた覚えはないのだから、Kに関する用件ではないのだと言い直しました。奥さんは「そうですか。」と言って、あとを待っています。私はどうしても切り出さなければならなくなりました。私は突然「奥さん、お嬢さんを私にください。」と言いました。F奥さんは私の予期してかかったほど驚いた様子も見せませんでしたが、それでもしばらく返事ができなかったものとみえて、黙って私の顔を眺めていました。一度言い出した私は、いくら顔を見られても、それに頓着などはしていられません。「ください、ぜひください。」と言いました。「私の妻としてぜひください。」と言いました。奥さんは年をとっているだけに、私よりもずっと落ち着いていました。「あげてもいいが、あんまり急じゃありませんか。」ときくのです。私が「急にもらいたいのだ。」とすぐ答えたら笑い出しました。そうして「よく考えたのですか。」と念を押すのです。私は言い出したのは突然でも、考えたのは突然でないというわけを強い言葉で説明しました。
 それからまだ二つ三つの問答がありましたが、私はそれを忘れてしまいました。男のようにはきはきしたところのある奥さんは、普通の女と違ってこんな場合には大変心持ちよく話のできる人でした。「よござんす、さしあげましょう。」と言いました。「さしあげるなんていばった口のきける境遇ではありません。どうぞもらってください。ご存じのとおり父親のないあわれな子です。」とあとでは向こうから頼みました。
 話は簡単でかつ明瞭に片づいてしまいました。最初からしまいまでにおそらく十五分とはかからなかったでしょう。奥さんはなんの条件も持ち出さなかったのです。親類に相談する必要もない、あとから断ればそれでたくさんだと言いました。 aQ3本人の意向さえ確かめるに及ばないと明言しました。そんな点になると、学問をした私のほうが、かえって形式に拘泥するくらいに思われたのです。親類はとにかく、当人にはあらかじめ話して承諾を得るのが順序らしいと私が注意したとき、奥さんは「大丈夫です。本人が不承知のところへ、私があの子をやるはずがありませんから。」と言いました。
 自分の部屋へ帰った私は、事のあまりにわけもなく進行したのを考えて、かえって変な気持ちになりました。はたして大丈夫なのだろうかという疑念さえ、どこからか頭の底にはい込んできたくらいです。けれどもだいたいのうえにおいて、私の未来の運命は、これで定められたのだという観念が私のすべてを新たにしました。
 私は昼ごろまた茶の間へ出かけていって、奥さんに、今朝の話をお嬢さんにいつ通じてくれるつもりかと尋ねました。奥さんは、自分さえ承知していれば、いつ話してもかまわなかろうというようなことを言うのです。こうなるとなんだか私よりも相手のほうが男みたようなので、私はそれぎり引き込もうとしました。すると奥さんが私を引き止めて、もし早いほうが希望ならば、今日でもいい、けいこから帰ってきたら、すぐ話そうと言うのです。私はそうしてもらうほうが都合がいいと答えてまた自分の部屋に帰りました。しかし黙って自分の机の前に座って、二人のこそこそ話を遠くから聞いている私を想像してみると、なんだか落ち着いていられないような気もするのです。私はとうとう帽子をかぶって表へ出ました。そうしてまた坂の下でお嬢さんに行き会いました。Gなんにも知らないお嬢さんは私を見て驚いたらしかったのです。私が帽子をとって「今お帰り。」と尋ねると、向こうではもう病気は治ったのかと不思議そうにきくのです。私は「ええ治りました、治りました。」と答えて、ずんずん水道橋のほうへ曲がってしまいました。

問1 A「とりとめもない世間話をわざと彼にしむけました」について、この「私」の行為の背後にある心理を、文中の語を使わないようにして、具体的かつ分かりやすく説明しなさい。

問2 B「今までまるで気にならなかったその二字が妙な力で私の頭を押さえ始めた」とは、分かりやすくいうとどういう思いなのか。物語の内容に即して、具体的かつ簡潔に(40字前後で)説明しなさい。

問3 C「一般を心得たうえで、例外の場合をしっかり捕まえたつもり」について、ここでは「一般」、「例外」はそれぞれ具体的にはどういうことか、文中の語句を使って答えなさい。

問4 D「最後の手段」及びE「最後の決断」とはどういうことをするものか。文中の語は使わないようにして、具体的かつ分かりやすく説明しなさい。

問5 F「奥さんは私の予期してかかったほど驚いた様子も見せませんでした」について。「奥さん」がそうであった理由はどういうものと推察できるか。何点かあげて説明しなさい。

問6 G「なんにも知らないお嬢さん」とは、具体的には何を知らないとうのか。20字以上25字以内で説明しなさい(句読点・記号は一字と数える)。


advanced Q. aQ1この双方の点とは具体的には何か。本文中の語句を用いて簡潔に(50字を越えない程度で)答えよ。

advanced Q. aQ2Kがちかごろ何か言いはしなかったかと奥さんにきいてみましたとあるが、「私」はなぜそうしたのか簡潔に説明しなさい。

advanced Q. aQ3本人の意向さえ確かめるに及ばないについて、「奥さん」がそう言っているのはなぜか簡潔に説明しなさい。




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