あきれるような悪事を(天皇に)申し上げこれを実行なさった罪の罰で、この大臣〔藤原時平〕のご子孫はおられないのです。そうはいうものの、(時平公は)大和魂などは、すぐれていらっしゃいましたのにねえ。
延喜の帝〔醍醐天皇〕が、世の中の風俗習慣を取り締まりなさいましたが、度を越したぜいたくを御抑制なさることができないでいらっしゃったとき、この殿〔時平〕が、禁制を破ったお召し物で、とりわけ立派なのを身につけて、内裏に参上なさって、清涼殿の殿上の間に伺候していらっしゃいますのを、帝が、(昼の御座の)小蔀から御覧になって、ご機嫌がひどく悪くおなりになって、蔵人をお呼びになって、「世間のぜいたくの禁制を厳しく命じているこの頃なのに、左大臣が、臣下最高の身分というものの、特別美麗な服装で参内するとは、不都合なことだ。早々に退出せよという旨を申し伝えよ。」とお命じになりましたので、(勅命を)お伺いした蔵人は、「(こうお伝えしたら)いったいどんなことに(なるだろうか)。」と恐ろしく思ったが、(時平公のところへ)参って、ぶるぶるふるえながら、これこれの仰せですと申したところ、(時平公は)とてもびっくりして、恐縮して(天皇のお言葉を)承って、御随身がお先払いをするのもご制止になって、急いでご退出になったので、お先払いの者どもは不審に思ったのでした。
そうして、(時平公は)本院のご門を一か月ほど閉じさせて(謹慎し、ご自身は)、御簾の外へもお出ましにならず、人などがご訪問申し上げるのにも、「帝のお咎めが重いから。」と仰せになって、お会いになりませんでした(。こんな具合であった)ので、世の中のぜいたくの風潮がなくなったのです。内々に(真相を)よく承りましたところ、そういうふうにしてこそぜいたくもおさまるだろうというので、帝と(時平公とが)お心をお合わせになったということです。
(時平公は)おかしいことがあると、それを我慢おできになりませんでした。いったんお笑い出しになると、少しばかり物事も乱れておしまいになったとかいうことです。北野〔菅原道真〕と一緒に政治をお執りになったころ、(時平公が)道理に合わないことを仰せになったので、(道真公は)何といっても(相手が)尊い(身分の時平公な)ので、「強引になさることを、どうして(お止めできようか)。」とお思いになって、「この大臣〔時平〕のなさることだから、不都合だと思うが、どうしたらよかろうか、いや、どうにもしようがない。」と嘆いていらっしゃったところが、なんとかという名の太政官の書記が、「なんでもないことです。私めが、必ず時平公のなさることを止めましょう。」と申したので、(道真公は)「そんなことができるはずはない。どうやって(お止めしようとするのか)。」などと仰せになったが、(その男は)「ただ御覧になっていてください。」と言って、(時平公が)座に着いて、訴えごとを厳しく裁定して、がなりちらしておられるときに、この書記官は、文挟みに書類を挟んで、極端におおげさな身振りをして、この大臣〔時平〕に差し上げようとして、(その瞬間)実に高らかに一発やらかしたわけでございますが、大臣〔時平〕は、その文書を手に取ることもできず、手をふるわせて(笑いをこらえ)、そのまま笑い出して、「今日はどうにもしかたがない。右大臣〔道真〕にお任せ申す。」とその言葉さえも満足に言い終えなさらぬありさまでしたから、そのおかげで、菅原の大臣〔道真〕が、お思いどおりに決裁をおくだしになられました。
また、北野〔道真〕が、(死後)雷神におなりになって、とても恐ろしく雷鳴して光りきらめき、清涼殿に今にも落ちかかってしまうと見えましたが、(そのとき)本院の大臣〔時平〕が、太刀を抜き放って、「存命中も(貴殿は)私の次位におられた。今日、たとえ雷神とおなりになったといっても、この世においては、当然私に敬意を払うのが当然ではないか。どうして、そうならずにすまされようか。」と、雷神のほうをにらんで仰せになったのでしたよ。(それで北野の雷神も)一度はお静まりになったそうだと、世の人々は申しました。しかし、それ(ひるんだと思えたの)は、(実は)あの大臣〔時平〕がお偉いからではなく、天皇の威光が限りなくあらせられるのによって、(道長公が、朝廷におけるきまりや官位の秩序について)道理と道理に反することとのけじめをお示しになったのです。 (左大臣時平)
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